能登 飯田城



ファイルNo3294

畝状竪堀と堀切が見所です

                            尾根の堀切

@ いいだじょう 
  別名 

A住所:珠洲市飯田町
B目標地点:飯田保育所・城山児童公園
C形式:丘城  D比高:40m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・畝状竪堀
G時代/人物:室町期/長氏?
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2017年07月

  

道案内 ←登り口  ←城跡

北陸高速自動車道金沢西・金沢東・金沢森本インタのいずれかで下り、「のと里山海道」を目指します。内灘町の「のと里山海道」起点とし、徳田大津ジャンクションで能越自動車道と合流、輪島市三井町の能登空港インタの信号で右折し県道303号線に入ります。ここまで起点から1時間半ほどです。県道303号線から県道26号線に入りさらに県道57号線を進みます。松波西の信号で左折し国道249号線に入ります。約9km先、金峰寺の信号で国道249号線は右折です。約900m先の鵜飼の信号で国道は左折です。約5km先の上戸町北方の信号で左折、100m先の珠洲警察署前の信号で右折します。約1.3km先の栄の信号で斜め左に50m先を左折し250m先右手が中央図書館でそこに駐車させてもらいます。中央図書館の前が飯田保育所でその横が城山児童公園です。さらに隣が飯田公民館でこの前、山裾の道から登り口があります。
 
訪城備忘録

「緊急避難路・飯田城址」という看板のあるコンクリート階段のところから登ります。飯田城跡は津波などの災害の際の周辺地域の避難タワーの役目をもっているようです。2017年夏、珠洲市の城イベントをされたので、草刈り等されているとのことで訪城しました。二の郭下を北側へ向かうと北の堀切に出ます。その先の北斜面には畝状竪堀が10〜12条ほどあります。肉眼では良く見えるのですが写真ではなかなかうまく撮れないです。(これでも最近木々を伐採、草刈りされた状態です。) 戻って南尾根根元から主要部に登ります。主要部はロープが設置してある高い切岸を登ると二の郭と言うべき主要部2郭を巡る帯郭です。その上が主要郭です。二つの郭があり、同規模でどちらが主郭かよくわかりません。いずれにしても草が多いです。(これでも草刈り後のようです) 戻り、南の尾根を進みます。尾根中間部と尾根先端近くに堀切があります。先端近くの堀切の先にも郭がふたつあるようですが、行きませんでした。さらに主要部と尾根に挟まれた西側谷筋には小段郭が繋がっているですが、藪でみられません。 畝状竪堀は上杉氏の侵攻の際に改修されたもののようです。こういうものが見られるだけでも歴史を感じますね。

登り口
歴史

築城時期、築城者は定かではないようですが応仁の乱以前から城はあったようです。この一帯は若山荘と言われ日野氏の荘園であったようで、その管理は在地領主が務めたようです。また、鎌倉期からは地頭として入った長谷部信連の子孫が長氏を名乗り、本城を穴水城とし、一族が奥能登各地に拠りました。その中で飯田城の領主には長与一景連、飯田与三右衛門、遊佐孫六の名があるようです。 長景連は信連の流れではありますが、傍流であったようで上杉氏の家臣であり、天正四年(1576年)、謙信の能登侵攻に従い奥能登に入り、正院川尻城を居城としたようです。飯田氏も上杉氏の家臣で上杉謙信の能登侵攻以降と考えられます。遊佐氏は元々は能登守護畠山氏の守護代の家ですが、謙信が没した天正六年以降に織田氏に従った遊佐続光の一族が遊佐孫六ではないかと考えます。遊佐続光は天正九年に織田信長に処刑されているため、この頃には飯田城も廃城になっているのではないでしょうか。

畝状竪堀         先端の堀切
  
二の郭を見上げる        北の堀切
畝状竪堀
畝状竪堀
帯郭から主郭切岸         主要郭
尾根中間の堀切
尾根中間の堀切
尾根先端側堀切

近くの城・関連の城:正院川尻城萩城