若狭 / 粟屋勝久館



ファイルNo1197


              居館石垣  

@ あわや やかた 
  別名 国吉城居館・佐柿陣屋<佐柿奉行所>

A住所:三方郡美浜町佐柿 
B目標地点: 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:畑地・山林 

F遺構等:郭・石垣・土塁・堀
G時代/人物:戦国期〜江戸期/粟屋氏・酒井氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2001年04月・2008年08月
            ・2014年05月・2018年09月
            ・2019年06月

  

道案内 

北陸高速道敦賀インタを下り、料金所を超えて左側に下り8号線バイパスに入ります。2Km先の岡山1の信号で直進し国道27号線に進みます。5Km先の旗護山トンネルを越えたところで立体交差になっているところで道が交差しているので注意してください。国道27号線を進みます。国道27号線は新道が出来ています。旧道は、海沿い(坂尻海水浴場)を6Km進み、新道に合流すると佐柿です。新道は国吉城トンネルを越えると佐柿です。合流から500m先の佐柿のバス停でそこを左折します。すぐにまた左折で700mほど行ったところで左折した前方の山が城跡です。右手に徳賞寺があります。奥に館跡があります。

訪城備忘録

国吉城城山の麓に居館跡、江戸期の佐柿奉行所(陣屋)、江戸末期の准藩士屋敷があります。居館は発掘調査され、石垣遺構などが出てきています。石垣は木村氏時代のもの、京極氏領有時代のものと考えられます。また、江戸期の佐柿奉行所・准藩士屋敷の石垣も残ります。2001年の記憶があいまいで、2008年に再訪しましたが、発掘調査の後ではありますが、居館の規模、石垣の多用には改めて驚きです。国吉城登城道左手に遺構が広がります。2008年に資料館が完成、建物は旧田辺邸(美浜町佐田)の移築とのことで、(元々は佐柿奉行所の建物を明治に田辺家に移築したものらしい) 2018年3月に登録有形文化財に指定されました。田辺氏は粟屋氏の家臣で、江戸期は大庄屋であったとの事です。

発掘石垣(木村氏時代)
歴史

天文年間(1532〜55年)に後瀬山城主若狭守護の武田氏の家臣であった粟屋勝久が築城したとされます。(あるいは修築したとも伝えられます。) 一乗谷朝倉氏五代の朝倉義景は永禄六年(1563年)から永禄十二年(1569年)の間にこの城に攻め込んだが落とすことができませんでした。本能寺の変以後、勝久は豊臣秀吉によって転封させられたようですが詳細が不明です。国吉城には木村常陸守重滋が入り佐柿に城下町を作ったとされます。しかし、重滋も文禄四年(1595年)の秀次事件に連座し自殺し木村氏は改易されたようです。若狭はその後には堀尾氏、浅野氏、木下氏、京極氏の支配下となり、江戸期に入り酒井氏が小浜城主となり、国吉城は廃城となり、この地は小浜藩領の佐柿奉行所が置かれました。

准藩士屋敷
幕末に小浜藩預かりになった水戸天狗党の残党を収容するために、慶応二年(1866年)に作られた屋敷です。慶応四年(1868年)に朝廷の命で水戸藩に帰参して、ここを離れました。

居館土塁          居館地
現地案内板より
准藩士屋敷石垣                     居館石垣  
2001年撮影      佐柿陣屋石垣       2008年撮影
  
2001年撮影 佐柿陣屋石垣
  
石垣遺構(京極氏時代?)
石垣遺構(隅石)
青蓮寺谷遺構
石積み側溝遺構と下の段遠望   居館跡    石垣痕跡          
石垣遺構
石垣遺構
居館跡遠望(後方山頂が国吉城)
国吉城主郭遠望
若狭国吉城歴史資料館(佐柿奉行所の位置<建物:旧:田辺半太夫邸>)
資料館内部
資料館内部
若狭国吉城歴史資料館と佐柿奉行所の石垣

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