越前 三留城



ファイルNo1188


                 説明板と後方高台は館跡の正寿寺  

@ みとめじょう 
  別名 三冨城 

A住所:福井市三留町
    旧:丹生郡清水町三留 

B目標地点: 
C形式:平山城  D比高:20m 
E現況: 山林・雑木林・宅地・田畑

F遺構等:郭?・説明板 
G時代/人物:戦国期/朝倉氏
H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2001年08月・2007年10月
             2021年03月

  
正寿寺
  
  

【道案内】  ←説明板のある地点

北陸自動車道福井インタを下り、国道158号線を福井市内中心部に向かいます。国道8号線が高架で交差する西方の信号を直進して県道5号線に入ります。2.1Km先で高架でJR北陸線を越え、さらに500m先の幸橋北詰の信号で右折し、福井県庁(福井城)を右手に見ながら1Km先の裁判所前の信号で左折して県道115号線に入ります。1.7Km先の光陽の信号で右折して県道6号線に入ります。新明星橋を渡って県道6号線を進みます。明星の信号で県道は斜め右手方向に進みます。久喜津橋で日野川を越え、700m先の竹生の信号で左折し、1.5Km先の信号で右折、300m先で右折し、150m先の集落内の十字路角に説明板があります。



【訪城備忘録】

説明板には正寿寺(景久の子の千代雅丸が住職であった)が城の館跡で五位山に本丸があると書かれています。、正寿寺の背後は丘陵で、愛宕神社がありますが、城という雰囲気ではありません。正寿寺の反対側の山がそのようです。情報では遺構は明瞭ではないようなので登りませんでした。 説明板の隣の民家の表門は重厚で葵のご紋が入っていました。福井城からの移築門とかやろか?<ネットで調べて見ましたが出てきません>

 
【歴史】

一乗谷朝倉氏初代敏景の六男の景儀(かげのり)の子の孫六郎景冬が永正年間末(1515年頃)に築城し、一乗谷の西方の支城として機能しました。景冬の弟の景総、その子の景久が引き継いでいました。天正二年(1574年)に一向一揆に攻められ城は落城しました。 <現地案内板より> ここの朝倉氏は天正元年に一乗谷朝倉氏の滅亡の直前に織田氏に従ったのですが、翌年一向宗に攻撃されたものです。

 
  
五位山遠望
説明板の横のお宅の門 重厚な武家屋敷門に見える。(葵の紋がある)
葵の紋
結城晴朝館 3724
@ ゆうきはるともやかた  
  別名 

A住所:福井市片粕町
    旧:丹生郡清水町 

B目標地点: 
C形式:平城  D比高:ーm 
E現況: 宅地

F遺構等:説明碑 
G時代/人物:江戸期/結城氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2021年03月

福井城方向から行くと、県道6号線を進みます。日野川を越えて約100m先の片粕口の信号で左折します。約800m先(新片粕のバス停の先)で左折します。(八幡神社の裏手) 約200m先のT字路を右折します。住宅街の細い道を進みます。約100m先で左手へ進みます。その先50m、右手に石碑があります。周囲は住宅地で道より一段高いですが遺構のようなものは無いです。

晴朝は結城氏17代です。養子の結城秀康が慶長六年(1601年)に越前に封されると晴朝も従いこの地に五年ほど住したとされます。慶長十二年(1607年)に秀康が死去後は福井城周辺に住し、結城氏の本拠の結城市・小山市に移り住んだともいわれるようです。慶長十九年(1614年)に亡くなっています。

 

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