近江/ 高山館



ファイルNo1645

                           観念寺 

@ たかやまやかた 
  別名  −−−−−

A住所:長浜市高山町
     
旧:東浅井郡浅井町高山
B目標地点: 観念寺・高山神社
C形式:平城  D比高:−− 
E現況:寺・畑地・宅地

F遺構等:郭・堀切? 
G時代/人物: 室町期/高山氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  公民館から5分


J撮影・訪問時期:2006年12月

  
堀切形状

【道案内】

北陸自動車道長浜インタを下り、県道37号線を東に進みます。3Km先の国道東上坂の信号で左折し、国道365号線に入ります。約3Km先の草野橋南詰めの信号で右折し県道273号線に入り、途中、北之郷町で県道264号線合流し草野川沿いを北上、あるいは国道365号線の草野川橋を渡ってすぐの信号で右折し(大吉寺の大きな標識があります)草野川沿いを進みます。後者のほうが道はいい感じです。国道から約10Km先が高山集落で、集落の背後の高台に観念寺と高山神社があります。

 


【訪城備忘録】


資料には集落内の縦状の川は堀切形状とされ、観念寺と高山神社の間は空堀(堀切)となっていましたが、いずれも遺構という感じはしません。観念寺及びその尾根先端までが館跡の領域のようですが、ここについても明瞭な遺構という感じの箇所は見当たりませんでした。ここ高山地区は草野川沿いの平野部の一番奥にあり、その北は越前との境の山が迫っていて、訪城した日は雨の日でしたが、山には初雪が降り、うっすらと白くなっていました。

【歴史】

詳細不明 ただ、高山右近の出生地という伝承があるようです。

高山右近

高山氏は摂津三島郡の豪族であったとされますが、一説には近江甲賀郡の出身で、後に摂津に移住したという説があります。高山右近は友照(通称:飛騨守/洗礼名:ダリョ)の子として天文二十一年(1552年)に生まれたとされます。友照は松永氏に属し、大和宇陀郡の沢城に在城したとされます。三好長慶が永禄七年(1564年)に没して三好氏が衰退すると、高山氏は高槻城主であった和田惟政に属しました。しかし、元亀二年(1571年)に和田惟政は荒木村重に敗れて討死、高山氏は惟政の子の惟長に従いますが、元亀四年<天正元年>(1573年)に高槻城を乗っ取り、織田信長の家臣になっていた荒木氏に属するようになりました。この後、高山氏の当主は友照から右近(重友・長房/洗礼名:ドン・ジェスト)に移ったようです。この頃は高槻城主4万石という規模だったようです。天正六年(1578年)に荒木村重が信長に背きましたが、村重の与力であった高山氏は信長方に付き、さらに、天正十年(1582年)に本能寺の変で信長が横死した際には、明智光秀には加担せず、羽柴秀吉の属しました。右近は黒田氏、細川氏などと親しく、彼らに当時ではあまり食さない牛肉を振舞ったとされます。これは、和田氏に属した事を含め、高山氏が近江に関わるとされる一要因らしいです。天正十三年(1585年)に播磨明石6万石に転封となりますが、天正十五年(1587年)に秀吉は突然にキリシタン禁教令を発し、黒田孝高などはすぐに棄教しましたが、右近は信仰を捨てずに改易となりました。小西行長に庇護され、一時、小豆島に住みますが、後には前田利家に庇護され、利家より一万五千石を与えられ金沢に住しました。この頃は南房と号していました。小田原の陣、関が原の戦いにも前田勢として参陣し、また、金沢城の大改修や高岡城の築城縄張りに関わるとともに、前田利長のよき相談役であったようです。慶長十九年(1614年)に、徳川幕府のキリシタン追放令を受け、内藤如安らとマニラに渡りましたが、翌年の元和元年(1615年)にマニラで没しました。


  
  
堀形状
  
高山集落遠景
  
  

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