近江/ 下之郷城



ファイルNo1624

        字 城の碑(茂みは桂城神社)   

@ しものごうじょう 
  別名  −−−−−

A住所:犬上郡甲良町下之郷 
B目標地点:桂城神社
C形式:平城  D比高:−−− 
E現況:宅地・田畑

F遺構等:類似碑 
G時代/人物: 室町期?/多賀氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2006年11月

  
字 堀の内の碑

【道案内】

名神高速彦根インタを下り、原町の信号を右折して国道306号線に入り国道8号線に向かいます。外町の信号で左折し国道8号線に入ります。4Km先が高宮町の信号、そこから2.5Km先が野口町の信号です。野口町の信号を左折し県道227号線に入ります。1.4Km先で東海道新幹線・近江鉄道を越え、2.8Km先で甲良中学手前で右折します。桂城神社の裏手の道に殿城の碑が立っています。下之郷集落内何箇所かに碑が立っています。



【訪城備忘録】

遺構は残っていないようです。集落各所に石碑があり、堀跡などを表記しています。昔は、集落中心部に土塁の痕跡があったようですが、今は駐車場になっていまして、土塁は消滅したようです。

【歴史】

多賀豊後守の居城とされます。中原氏が近江国愛知郡移り、多賀神社の神官を務めて多賀氏を称しました。鎌倉幕府の御家人で京極佐々木氏に従い、室町中期には犬上郡を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠とする多賀氏とがあり、前者は豊後守を称し、後者は出雲守を称しました。若宮氏と並んで京極氏屈指の有力被官でありました。応仁の乱では、守護京極持清は東軍に、守護代の多賀高忠とともに奮戦しました。しかし、近江では西軍六角氏が優勢で、多賀昌宗は六角氏に付きました。高忠・昌宗の両多賀氏は争いましたが、文明十三年(1481年)に、幕府の仲介で両者は和睦します。しかしながら、京極高清と多賀昌宗が実権を握り、高忠は近江に戻れなくなってしまいました。高忠の曽孫貞澄の子の貞能のときに明智氏・豊臣氏と従いましたが、貞能の養子の秀種は関ヶ原で西軍に与し改易されました。



【雑】
甲良豊後守は建仁寺流甲良大工の始祖で、江戸城や寛永寺などの建築に関わりました。これは、藤堂高虎(高虎も甲良出身)や天海僧正との交流があった事も要因にあったようです。下之郷集落の隣の集落の法養寺集落が出身地です。
  
  
字 堀端の碑
  
甲良豊後守宗廣生誕地
  
  

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