近江の城36  

                                                                               

志那城  3754
石碑
長屋門(個人宅)

A草津市志那町
B志那神社
名神高速栗東インタを下り、国道1号線を草津・大津方面に進みます。インタより2つ目の信号の上鈎(かみまがり)の信号で右折し県道31号線に入ります。3Km先でJR東海道線の陸橋を越え、さらに3Km先(花園・駒井沢町の信号を通過)の志那中町の信号も直進し県道26号線(通称浜街道)を横切ます。約1km先の志那中町西の信号を左折します。約800m先の点滅信号を右折します。約200m先の右手、志那神社を越え、さらに道なりに約500m先の右手民家に石碑が立ちます。石碑は連歌師の山崎宗鑑の屋敷跡で「宗鑑翁屋敷跡」の碑です。左手に長屋門があるんですが、個人宅の門なんですが重厚な門です。どこからかの移築なのか?由来はわかりません。

C平城
F遺構等:類似碑
G期/氏 
H満足度:凸
築城時期、築城者は不明です。
宗鑑はここの出身で志那範重という名です。足利義尚(九代将軍)に仕えましたが、義尚が鈎の陣(栗東市)で陣没した後に出家し、山崎(山城)に隠匿し、山崎宗鑑と呼ばれたようです。現在、大阪府島本町に旧跡があるようです。宗鑑は大永三年(1523年)には山崎を去り、讃岐の観音寺に移りそこで没したとされます。

J訪城:2021/09
下戸山城  3755
土塁?
郭?
城域遠望
小槻大社本殿
A栗東市下戸山
B小槻大社
名神高速自動車道の栗東インタを下り、草津方面に進みます。約700m先、上鈎北の信号を左折し県道55号線に入ります。約600m先の手原の信号を右折します。約2.5km先、金勝川のT字で左折し県道117号線に入ります。(スロープを上がる) 約800m先の灰塚橋の信号を右折します。約400m先の信号で左折します。約500m先で右折し下戸山集落内に入ります。約200m先(下戸山宮ケ谷のバス停手前)を右折し坂を登ります。約200m先の左前が小槻大社です。左折する道があり、ここを曲がって約25m先左手に民家と民家の間に小道があります。ここに左折します。約50m先の丘陵先端が城跡のようです。車は小槻神社の駐車場に停めさせてもらいました。
現地では周囲が住宅になっているのにこの一角だけが山林と言う感じです。ただ、明瞭な城跡遺構が見当たらず本当にここでいいのか自身がないです。

C丘城
F遺構等:郭?・土塁?
G鎌倉?・戦国期/青地氏 
H満足度:凸
小槻神社の歴史からすると、元々は小槻氏が創建のようです。弘安四年(1281年)に青地基氏によって本殿宮殿が新造され、康永二年(1343年)、青地重頼によって四脚門(現存せず)が造営され、永正十六年(1519年)、青地元真によって本殿が再建されたと記されている。(神社説明碑参照) 青地氏の本城は青地城と言われており、ここは分家か? いずれにしても築城時期、築城者は不明です。

J訪城:2021/09
   
源満仲館  2369 
石碑
A大津市仰木
B仰木太鼓会館・仰木小
琵琶湖大橋側から来ると県道558号線(旧161号線)の仰木口の信号で右折し県道313号線に入ります。宅4kn先の仰木小を越えて右折し小学校沿いを進みます。(比叡山有料道路<奥比叡ドライブウェイ>入口の手前) 約300m先の左手の御所之山公園が館跡です。
石碑には「多田満仲公頌徳碑」と刻まれています。

C平城
F遺構等:碑・説明碑 
G平安期/源氏 
H満足度:凸
御所の山は多田源氏の源満仲の館があった場所とされます。満仲は天録二年(971年)に摂津多田(川西市)より来住し十数年余りをここで過ごしたとされます。(現地説明板より)
(満仲は長徳三年(997年)に亡くなっているので壮年と言うより晩年に近い頃にこの地に住したという事だろうか)
J訪城:2010/01

清和天皇の流れの清和源氏は満仲の時代に大きくなります。満仲の長男の頼光は多田(現川西市)において多田源氏と呼ばれ、三男頼信は河内源氏と呼ばれます。 頼信の孫の義家、その子の義親が嫡流、義国は新田氏の祖、義忠は足利氏の祖となります。義親の系統が義朝、頼朝と繋がります。