加賀 日谷城



ファイルNo1898


                  主郭下から主郭を見る(高低差のある切岸)

@ ひのやじょう 
  別名 檜屋城

A住所:加賀市日谷町 
B目標地点: 
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・堀・(説明板)
G時代/人物:戦国期/一向一揆・戸次氏
H満足度:凸凸

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  登り口から10分


J撮影・訪問時期:2008年06月

  

道案内    ←登城口

北陸高速道加賀インタを下り、熊坂の信号で左折し国道8号線に入ります、約3Km先の曾宇町の信号で右折し県道142号線に入ります。約2.5km先で県道142号線新道との交差点で左折します。約1km先日谷荒木トンネルの約200m手前で右折します。約600m先、日谷町の入り口付近で左折します。(日谷城の標識有:登城口まで900m) 約500m先で右折します。(日谷城の標識があります。) 約700m先の右手に日谷城登り口の標識があります。(城跡まで420m)
 
訪城備忘録

谷筋を登って行きます。200mほど進むと、谷がやや左方向と右に折れる方向に分かれますが、右手方向に登ります。この谷筋は段郭のように段になって上の方まで続いています。尾根が見えてきましたら、右手側は北西の郭への道、そのまままっすぐ上へは主郭方面になります。尾根まで登ると郭であるのはわかるのですが藪状態です。そのまま左手方向に進み、少し行って、右手方向に登ると主郭です。主郭は三角状で、土塁などはありません。倒木も多く、草木も伸びていて見通しは悪いです。主郭東側下には、くの字の郭があり、ここは植林されていて郭は草が伸びていません。郭の淵には低い盛り上がりもあり、土塁の痕跡かもしれません。この郭から主郭北側下の郭の方へ進むと、主郭の切岸が今も鋭いのがわかります。北側郭は大きな郭で3つほどあります、郭間の切岸は低いですが、浅い堀切状の窪みが認められます。この北側郭の下にはU字状に割と幅のある横堀が認められます。資料では、この横堀の構築が織豊系の改修の跡との事です。帰りには北西の尾根上にある細長い郭にも行きました。主要部とは高低差がありますが、郭として連なっています。上の郭との切岸のところに浅い堀切と土塁形状が認められます。郭は植林されていて歩きやすいのですが、これという遺構はないです。全体としては訪城時期の関係で草木が伸びていて見にくかったのと、熊の出没注意に怯えながらでしたので、少々不満は残ったです。^^;

2018年、10年ぶりに寄ってみましたら登り口がしっかりありました。ただ、夕方だったんで城跡には行けませんでした。

登城口標識2018年
歴史

天文年間(1532〜55年)に一向一揆勢が築城したと考えられます。弘治元年(1555年)に朝倉宗滴が加賀侵攻し、城は朝倉氏の手に落ちたとされます。永禄十年(1567年)には朝倉義景と一向一揆とも和議で一向衆は松山城を廃し、朝倉方は大聖寺城・黒谷城・日谷城を放棄し焼き払ったとされます。天正三年(1575年)に織田信長の加賀侵攻開始の際、大聖寺城・日谷城を修復し戸次(別喜)右近広正をこの城に入れたとされます。

主郭北側郭の切岸         北側郭下の横堀
主郭東下郭             北側郭下の横堀
北西尾根の細長い郭
  
谷筋の登城道(2008年当時)                 城跡遠景

近くの城・関連の城: