美濃 美濃土岐・高山城



ファイルNo3799


              主郭              

@ みのとき たかやまじょう 
  別名 

A住所:土岐市土岐津町高山
B目標地点:
C形式:山城  D比高:40m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・模擬櫓・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/高山氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2022年03月

  

道案内 

中央自動車道の土岐インタを下ります。 国道21号線を右折し土岐市街地に向かいます。約600m先の大富の信号を直進し、国道19号線を横切ります。約400m先、新土岐川橋で土岐川を渡ります。約400m先の浅野朝日町の信号を右折し県道69号線に入ります。約800m先の高山の信号で左折します。約600m先、高山区民会館の手前で左折します。約100m先、高山公園の所で左折し、約400m先で逆V字に左折します。約500m先が城跡の駐車場です。 (あるいは、約500m先を逆Vで斜めに左折します。約80m先を右折し約100m右手に駐車場があります。ここから徒歩で穴弘法を越えてから右手に登ると城跡です。)

訪城備忘録

城跡は長く水道施設であったため、遺構は地表には無いです。主郭には東屋と展望台が作られてます。「麒麟が来る」で整備されたようですが 残念な感じはします。訪城時、朝から保存会の方でしょうか、掃除・整備されてました。

説明板
歴史

鎌倉初期、承久の乱(1221年)の頃に土岐氏の一族、高山伊賀守秀頼が砦を築城したとされます。弘治二年(1556年)、高山伊賀守光敏が死去した後、平井光行、頼母親子が城主となりました。天正二年(1574年)、武田勝頼に攻められ落城したようです。関ケ原の戦いの時には平井頼母が復帰し岩村城の田丸氏に従い西軍となったようです。妻木城の妻木頼忠に攻められ頼母は討死したようで、城も廃城になったようです。

模擬櫓       東屋
麓から
往時の縄張図 現在の地表からは堀切も含めまったく確認できません。
  
堀切跡     主郭手前
現地案内板
穴弘法      三の丸下
大富館 3797 
@ おおとみやかた A住所:土岐市泉大島4丁目 B目標地点:伍所公園
C形式:平城  D比高:ーーm  E現況:公園・宅地
F遺構等:碑・説明板 G時代/人物:平安期/源氏 or 室町期/土岐氏  H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:1分  J撮影・訪問時期:2022年03月

中央自動車道の土岐インタを下ります。 国道21号線を右折し土岐市街地に向かいます。約600m先の大富の信号を右折し国道19号線に入ります。約500m先の泉仲森町の信号で左折し、約50m先を左折します。約300m先を右折し、約100m先が伍所公園です。 住宅街の公園の南端に「土岐源氏発祥の地」の石碑と説明板があるのみです。

源頼光(清和源氏三代で多田源氏<摂津源氏>)の子の頼国、あるいは、その子の国房が平安中期<頼国が天喜元年(1058年)に死去してるのでこの頃以降か?>に築いたとされます。五代の光衡が一日市場館(神戸館)に移り土岐氏を名乗ったとされます。光衡の子の光行、孫の光定は浅野館に住し、光定の子の頼貞は再び大富館に居を移し、建武の新政で美濃守護となり、南北朝期は足利尊氏に従いました。頼貞の子の頼遠は歴応二年(1339年)、本拠を長森城に移しました。

説明板と石碑
浅野館 3798 

@ あさのやかた A住所:土岐市肥田浅野笠神町3丁目 B目標地点:多度公園・笠神公園
C形式:平城  D比高:ーーm  E現況:公園・宅地
F遺構等:碑・説明板2 G時代/人物:鎌倉期/土岐氏 H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:1分  J撮影・訪問時期:2022年03月

中央自動車道の土岐インタを下ります。 約600m先の大富の信号を直進し、国道19号線を横切ります。約400m先、新土岐川橋で土岐川を渡ります。約100m先で左折し、約80mでまた左折、約50mで右折し約100m先、左手土岐川側が駐車場、右手が多度神社・笠神公園です。笠神公園は元はプールのあった場所で、現在は笠神公園として再整備され、一角に多度神社があります。

土岐光衡の子の光行は承久の乱<承久三年(1221年)>の頃に一日市場館よりここの館を移しました。子の光定もここを居館としますが、光定の子の頼貞は大富館の居を移しました。

公園内の説明板       駐車場側説明板
神社内由来説明碑      多度神社

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