美濃 迫間城



ファイルNo3352

小さな城跡でありますが、江戸期を通して旗本として残った大島氏の城

                 主郭           

@ はさまじょう 
  別名  

A住所:関市迫間
B目標地点:迫間山・迫間不動尊
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・竪堀?・碑
G時代/人物:戦国期/大島氏
H満足度: 凸+☆
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2017年12月

  

道案内 

東海北陸自動車道の岐阜各務原インタを下り、国道21号線(那加バイパス)を東に向かいます。約16km先、鵜沼インタの信号で左折します。国道21号線新道(坂祝バイパス)を進みます。約1.2km先の鵜沼北インタで左折します。(側道を登り、左折ですので注意) 約2.3km先(各務原公園を過ぎたところ)で右折します。角に迫間不動の標識があります。約1.2km先、迫間不動前の「ぶどうの森」駐車場(迫間不動尊駐車場)まで行きます。ここから徒歩で迫間不動の本堂・奥の院への坂を登り、奥の院まで行き、その左手前コンクリート階段をひたすら比高150mほど登り、尾根に登ると迫間八方不動があって、この奥を進むと城跡です。
 
訪城備忘録

城跡は関市側の尾根上にありますが、迫間不動を挟んだ反対側の各務原市側の尾根を各務原アルプスと呼ばれ(関市側からは関南アルプスと呼ぶそうです)ハイカーの方がたくさんおいでです。このふたつの尾根は明王山の所で谷を挟んでU字に繋がっています。谷に迫間不動尊があるという位置関係です。各務原側麓にも迫間城の標識、各務原側尾根上にも迫間不動と迫間城の標識があり、案内板も高低差が書いてないため、なにかわかりにくく反対に迷ってしまいましたが、最短は案内板通り迫間不動尊の奥の院手前のコンクリート階段を行ってください。私は標識にまどわされて、迫間不動尊手前の東屋のある駐車場に停めて、各務原尾根から入り、明王山を越えて、城跡にたどり着いたので、3時間ほどかかってしまいました。^^; まあ、ハイクのつもりならこれはこれでいいですね。各務原側尾根の途中には「のべぶり岩」という小牧山城時代の織田氏の狼煙台もありますし、明王山山頂からの眺望も犬山城が眼下に見え、遠くに小牧山、名古屋駅前の高層ビルも見えますし、金華山が遠望でき、岐阜城天守も確認できます。さらに東下には猿啄城の模擬天守(展望台)も見ることができます。
さて、城跡ですが、迫間八方不動からもう少し尾根を進むと迫間城の最後の標識があって坂を登ります。坂の途中には本当に痕跡という感じの薄い堀切と土橋が認められます。さらに上に主郭下の郭と竪堀と思われるところがあります。主郭は楕円形の小さな郭でした。地面に城址碑が落ちてました。主郭先にも一段下がって郭が確認できます。遺構としてはこんなもんのようですね。

城址碑
歴史

築城時期、築城者は不明のようですが、大島氏が城主と伝わります。戦国期、大島氏として、大島光義、及び、子の光成、光政、光俊、光朝らの名前が史料にはあるようですが、ここの城主であったかは不明のようです。大島光義(雲八)は美濃守護代斉藤氏の家臣長井氏に従ったようです。その後、織田氏に従い、秀吉に従います。関ケ原の戦いでは一族は東西に分かれたようで、光義は東軍に属し、戦後、18000石を拝領したようです。西軍についた光俊も父と長兄光成の功績で許され、父の死後、3250石を分与され旗本となり交代寄り合いとして江戸期を通じて存続しました。

斜面の堀切と土橋の痕跡
主郭手前郭と主郭切岸
  
各務原側尾根金比羅山そば「のへぶり岩」
「のべぶり岩」からの眺望
明王山山頂から金華山(岐阜城)遠望
明王山山頂から猿啄城模擬天守(展望台)遠望
明王山近くから関側尾根と城跡遠望
明王山下尾根の猿啄城への分岐点      迫間不動尊奥の院     
案内板(山との高低差が書いてないので案外わかりにくい^^;)

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