飛騨/ 小鷹利城



ファイルNo1089

           三の郭(三の丸)土塁と郭  

@ こたかりじょう 
  別名 黒内城
A住所:飛騨市古川町信包〜河合町稲越
   旧:吉城郡河合町・古川町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・畝状竪堀
       ・土塁・碑・説明板

G時代/人物:戦国期/
        姉小路氏(向氏)・牛丸氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  林道沿いから10分

J撮影・訪問時期:2005年11月・2019年10月

  

道案内  ←登り口  ←城跡

高山市内より国道41号線で来ると、飛騨市古川町の古川消防署前(飛騨警察署そば)から国道をさらに2.1Km進みむと中野の信号で、ここよりさらに3.5Km神岡方面に進み、鷹狩橋(野口)の信号で左折し橋を渡り県道75号線に入ります。県道75号線を道なりに進み4.5km先の湯峰トンネルを越えます。トンネルを越えて500mで左折し小さな橋を渡り、橋を渡ったら右折し500mほど進みます。左側に林道がありそこへ左折します。林道を1.5Kmほど行った先の左手が城跡です。

訪城備忘録

城跡登り口手前には林道の左手にまるで牧草地か湿地帯が乾ききったような広い平坦地(すすきの繁みになってますが)が500mくらい長く続きます。林道を進み左手の平坦地が終わるところの左側に大きな岩山があります。ここから平坦地を横切り山すそまで行きますと、そこに馬場跡の標柱があり、ここから20m程度登ると三の郭(丸)の張り出した部分に至ります。私は最初ここがわからず岩山の裏手で山に入りました。尾根上に細い道が東に続いています。この道には郭跡や小さな堀切が確認できます。途中より道は北向きになり三の丸外側の竪堀に至ります。ここには南側斜面に短い畝堀があるのですが薮ではっきりしません。土塁を越えると三の郭に至ります。削平がしっかりしており外側(南側)には土塁が巡ります。 この三の郭(丸)と呼ばれますが、防御として、帯郭から横堀に変化する発展過程の状態と感じられます。これは東美濃の阿木城や近江の音羽城に感じが似ていると思いますが違うでしょうか?主要部三の郭の北側の切岸の上には二の丸がコの字状に主郭(本丸)を囲み二の丸の一段高いところが主郭(本丸)です。主郭は土塁はありませんが削平はしっかりしており、二の郭。三の郭を従えた主郭の風格を感じます。この三の郭は西側に張り出し土塁がU字に巡ります。この張り出しは主郭西側の斜面に横矢を利かせています。この西側斜面には畝状竪堀があるのですか草木が伸びていて写真では無理です。但し、一条だけ深く長い竪堀が明瞭な形で見ることが出来ます。この畝状竪堀の上部には横堀があり、下部にも土塁を伴った堀切があります。この堀切を反対側に登ると小郭と堀切があります。 それにしても快晴で紅葉が映え、遺構もしっかりしておりうれしくなる城跡でした。

2019年に再訪しました。2019年に発掘調査・現説がされています。主郭から礎石が出ていました。姉小路時代の礎石は主郭の端まであり、その後に入った金森氏系が少し小さめな建物に改修したようです。いずれにしても姉小路時代に礎石のある建物が山上にあったことが新発見のようです。しかし、畝状竪堀はあいかわらず1条を除き藪藪で少し残念でした。

二の郭(二の丸)

主郭(本丸)
歴史

築城年代は定かではありません。姉小路氏は家綱が南朝より国司に任命され信包城(向小島城)に居城しました。この頃に小鷹利城の前身の黒内城も築城されたと考えられます。また、麓にあった居館は桜の御所と呼ばれたようです。 応永年間に国司に任ぜられた藤原(姉小路)師言は向小島城の出城として小鷹利城は黒内城を出丸として取り込み拡張され築城されたとされます。 (現地で出丸がどこなのか判別できませんでしたが・・・) 城代は小鷹利伊賀守であったとされます。姉小路尹綱の後、応永十二年(1405年)頃には姉小路氏は小島城の小島氏、向小島城の向氏(小鷹利氏)、古川城の古川氏に分裂しました。向氏の重臣であった牛丸氏(重親)は小鷹利城を居城として主家を凌ぐようになりますが、天正十一年(1583年)に三木氏に攻められ落城、その際、牛丸叉右衛門は向氏の幼主を守って城を逃れたましたが、角川付近で三木軍に追いつかれ、家臣の後藤帯刀重元が防戦し、自身は討死しますが、幼主と牛丸氏を逃れさせました。幼主は常州佐竹氏に落ち延び向井左近大夫重成と名乗りました。牛丸叉右衛門は越前大野城主金森長近の元に逃れました。三木氏の持城となっていた小鷹利城ですが、天正十三年(1585年)に金森長近が飛騨に侵攻した際落城しました。叉右衛門は小鷹利城に復帰しましが長近の処遇に不満を持ち一揆を起こしたため、長近に攻められ討死しました。

【菅谷堤】 <林道沿いの説明板より(この説明板は2019年時点で無くなっている感じです。)>

ここより500mの地に飛騨姉小路三国司家(古川・小島・小鷹利(向))の一城として重きをなしてきた小鷹利城があり、城の築城年代は不明であるが、天正十一年正月と天正十三年八月の二回にわたって落城の憂き目にあい、その度ことに戦死者が多数にのぼり、その戦死者をこの地に葬ったと伝えられる。この地を開発するにあたり尊い戦士の霊を敬に永遠にこの形状を伝えんとする。

三の郭土塁
 
  主郭(本丸)西側の竪堀   西側竪堀(上から)と畝状竪堀
城跡登り口馬場跡    南側の畝状竪堀付近  
三の郭(三の丸)土塁   主要部近くの小郭からの遠景
  
三の郭からの竪堀(現登り道)     主郭切岸(三の郭から見る) 
三の郭
三の郭土塁
二の郭と主郭切岸     主郭    
主郭礎石     主郭城址碑
     主郭     主郭から段郭を見る
段郭から主郭切岸を見る
畝状竪堀の上部こぶ
畝状竪堀の1条を上から
出郭の堀切
出郭尾根
堀切を反対側から
道案内(城跡周辺)
  林道から後方城跡    林道沿いより城跡遠望(横の岩山が目印

近くの城・関連の城: 向小島城 野口城 小島城 古川城 ※