美濃/ 関が原



ファイルNo0906

天下分け目の激戦地も今は昔

                   関が原決戦地   

@ せきがはら 
  別名 
A住所: 不破郡関が原町 
B目標地点:
C形式:−城(陣城) D比高:−−m 
E現況:畑地・山林・宅地

F遺構等:郭・碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/−−氏
H満足度:
凸+☆
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  −−分

J撮影・訪問時期:1999年07月・2003年07月
    ・2016年05月、2018年04月・05月
    2023年05月 他
    (2019年06月・2020年02月)

  
関が原開戦地

【道案内】 

名神高速道関が原インタを下り、料金所を出て左折し国道21号線へ向かいます。700m先の関が原西町が国道21号線と国道365号線の交差点信号です。

【訪城備忘録】

主な史跡    

<関が原決戦地・笹尾山陣城(石田三成本陣)>
関が原西町の信号を直進して国道365号線を進みます。800m先の小池北の信号を右折し、さらに100m先を左折し250m先が決戦地です。そこから左手(西)へ200m行き右折し300mほど行った左手の丘が笹尾山陣です。笹尾山陣の背後がなんとなく堀のような窪みを感じましすが気のせい??^^;

<関が原開戦地>
関が原西町の信号を直進して国道365号線を進みます。750m先の小池南の信号を左折しすぐに右折し、250m先を戻る感じで左折し300mほど先が開戦地です。この西側に小西行長陣・奥に宇喜多秀家陣・島津義弘陣などの跡があります。

<東首塚・松平忠吉・井伊直政陣>
関が原西町の信号で右折し国道21号線に入ります。200m先の関が原駅前の信号で左折し関が原駅に向かいます。駅前で道は左折しさらに100m先で右折しJR線を高架で越えます。越えた左手にあります。

<丸山(岡山)烽火場・黒田長政陣>
国道21号線バイパス瑞竜の信号を北に入ります。関が原を北から見下ろせる位置で狼煙台となりました。

<桃配山 /徳川家康陣>
関が原西町の信号で右折し国道21号線に入ります。1.5Km先右手が桃配山陣です。国道の左手に駐車場があります。

< 追加のページ・関連ページ >

  @大谷吉継陣所(山中城)

  A徳川家康関が原最後の陣所 関ケ原古戦場記念館 
  B岡山陣所(徳川家康最初の陣所)

  C各武将の陣所 
    福島正則陣・脇坂安治陣・井伊直政陣・丸山燈火場
    小西行長陣・島津義弘陣・宇喜多秀家陣 など

  D毛利秀元陣所(南宮山)  E安岡寺恵瓊陣所 
  F吉川広家陣所      G長曽我部盛親陣所(栗原城)

  H小早川秀秋陣所(松尾山城)

  I浅野幸長陣所 

関連特別ページ
 A:島津隊の退き陣経路を行く

 B:オトチの洞窟
  (石田三成が逃亡の地/滋賀県長浜市)


 C:関ケ原の戦い異説


【歴史】
慶長五年(1600年)九月の関が原の戦いの場です。

  
笹尾山陣城遠望
  
笹尾山石田三成陣石碑
笹尾山より松尾山方面
島津陣付近から松尾山
  
笹尾山石田三成陣石碑
笹尾山

近くの城・関連の城: 松尾山城  岡山陣  玉城  竹中陣屋  菩提山城

          

 桃配山陣遠望          桃配山徳川家康陣石碑

島津義弘・豊久退き陣経路を行く

関ヶ原の戦いに約一千の兵で参戦した島津義弘でしたが、石田三成らとの意見違いもあり、戦いには実質加わらなかったとされます。西軍の壊滅が見えた時、島津隊は戦場の中央突破を敢行し、戦場を逃れました。300名が同行したとされます。しかし、井伊、藤堂、松平の軍の追撃は激しく、烏頭坂で義弘の甥の豊久が殿をつとめ奮戦、(豊久はここで戦死したともされますが違うようです) ついで、牧田で家臣の阿多長寿院盛淳が義弘(維新)の身代わりとなり奮戦し、討死しました。 さらに、追撃を受けながら、殿を務めた豊久でしたが、重傷を負い、ついに白拍子谷((しらべしだに)で力尽き自刀しました。 この白拍子谷には傷ついた豊久一行を追手から隠れるために村の庄屋の三輪氏が誘導したようです。白拍子谷に行ってみますと、街道からは丘陵が隠す感じの小さな谷で、今はコンクリートの用水路があるのみという感じの場所ですが、石碑が立っています。なぜに白拍子というのか地元の方にもわからないとの事です。豊久の遺骸は三輪氏が荼毘に伏し、瑠璃光寺に葬ったとされます。 義弘らは近江の豪族の小林氏の一族(当時、織田秀信の加勢で岐阜城に入っていて、岐阜城が東軍に陥落したため、近江に帰還の途中に義弘一行と出会ったようです。)に道案内され、上石津の時山から近江伊勢の国境である五僧峠 を越え、保月、杉坂峠 を経由して多賀へ山越えし、彦根の高宮の小林氏宅から甲賀・伊賀・桜井を経由し大阪から船で鹿児島に戻ったようです。(山越えには諸説あり)

関ヶ原開戦地(右後方の茂みが島津陣所)     島津義弘陣所
烏頭坂             烏頭坂豊久奮戦の碑
阿多長寿院盛淳の墓        盛淳奮戦の碑
白拍子谷  
島津豊久の墓(島津塚)  
島津塚入口           瑠璃光寺
関ケ原の戦い異説(関ケ原の戦いはなかった)

2018年、関ケ原の戦いについて異説を唱えられる歴史研究家様に異説に基づいた関ケ原を案内いただきました。まず、西軍の大垣城から関ケ原の移動は徳川家康の策謀によるものではなく、小早川秀秋の寝返りが確定したため、それに対応するための移動であったとの事。1次史料には石田三成が笹尾山に布陣したとは書かれていないとの事で、当時、自害ケ丘(自害峰)と呼ばれたところから藤下と呼ばれたところに布陣したとされています。小早川秀秋に対応するならば、笹尾山では遠すぎる、自害ケ丘(自害峰)・藤下は松尾山に近いところになるとの事です。さらに、他の武将についても、島津氏は現在大谷吉継の陣があったとされる山中周辺に陣があって、宇喜多秀家、小西行長らの陣は自害ケ丘(自害峰)の奥まった本当に松尾山の麓の位置に布陣したとされます。ここは藤下若宮八幡神社の裏手の丘の上(東海道新幹線の向こう側)になります。大谷吉継は藤古川の東岸に布陣したものとされます。 主力武将で大谷吉継だけが討死したのは一番東側であったためとされます。島津軍の中央突破もあれはなく、松尾山山麓を抜けて行ったものとの事でした。さて?? 自害峰奥の陣地跡には空堀、土塁と見られるものがあり、城跡とも寺跡とも耕作地跡とも見えますが、相当に広いです。 (注意)若宮八幡神社は関ケ原には三つある。ひとつは現大谷吉継陣の麓(山中)、ふたつめは異説石田三成本陣・宇喜多秀家・小西行長陣の麓(藤下)、最後に松尾山の南麓(今須)です。

自害峰
空堀に見える
虎口に見える
広い削平地
土塁に見える
自害峰の陸橋
藤下地区
藤古川周辺