信濃 天正寺仁科居館



ファイルNo0361


                            北堀跡

@ てんしょうじにしなきょかん 
  別名  −−−−−

A住所:大町市大町 
B目標地点:天正寺・大町西小学校
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:寺・宅地

F遺構等:堀
G時代/人物: 鎌倉期/仁科氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分

J撮影・訪問時期:2003年05月

  

道案内   

大町市中心部、大町駅側から国道147号線で来るとかまど神社前の信号で左折し200m先大町西小学校手前左側の天正寺一帯が居館跡です。

 
訪城備忘録
東堀と土塁跡

現在の天正寺周辺が居館跡で現天正寺の山門が大手だったようです。大町小学校手前で天正寺の北側に堀跡が残り、天正寺東側に堀と土塁が少し残ります。天正寺の周囲を歩いてみましたが一辺100mほどの広さです。往時の居館は現在の寺の1.5倍ほどあったようです。

北堀
歴史

平安期よりこの地方に勢力を持った仁科氏は勢力拡大に伴い館之内(大町市社)より鎌倉末期に天正寺に館を移しました。承久の乱(承久三年・1221年)の際に仁科盛遠が戦死し仁科氏は一時衰えますが、室町期に入り勢力を盛り返します。1400年頃の仁科盛房の頃が最盛期のようです。天文十九年(1550年)以降、仁科盛政は武田氏方にあって各地に転戦しますが、天正期初め、家臣団が上杉方に付き反旗を翻したため盛政は甲府に送られ殺害され500年続いた仁科氏は滅びます。しかしながら、武田信玄は五男の晴清に仁科五郎盛信と名乗らせ仁科家を継がせました。盛信は居館を修復しこの地を治めましたが、十年ほどの間、民心をとらえたとのことです。仁科五郎盛信は天正十年(1582年)に高遠城にて織田信長軍の信忠に攻められ討死しましたたものです。

  

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