東三河/ 野田城



ファイルNo0135

野田菅沼氏本城 武田信玄が生涯最後の城攻めとなった城

        空堀・土塁

@ のだじょう 
  別名  上ノ山城・根古屋城

A住所: 新城市豊島本城・豊島竜谷 
B目標地点:仏性寺  
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:山林

F遺構等:空堀・土塁・碑・説明板 
G時代/人物: 戦国期/菅沼氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分


J撮影・訪問時期:2002年12月 他

  
主郭の城址碑

【道案内】   

東名高速道豊川インタを下り、国道151号線を新城方面に向かい、川田の信号で直進(国道はバイパスとなり左折ですがこの信号は直進します)し、豊島の信号にて右折し50m程度でまた右折すると左手一帯が野田城となります。本丸・城址碑は、最後の右折から先端部分まで行くと説明板があり、そこから入るとすぐに主郭を取り巻く空堀のところで、土橋を渡ると主郭です。



【訪城備忘録】

武田信玄が生涯を閉じる最後に攻めた城。台地先端を主郭に三の郭まで直線的に郭配置が残ります。主郭部分を取り巻く空堀は明瞭に残りますが、二の郭・三の郭は雑木林となっており、郭を区切る土塁は認められますが明瞭とは言えない感じです。 野田城の道を挟んで西側下に仏性寺があります。この寺のある場所は城があった当時は沼地のような場所で天然の堀になっていたところです。この寺の西側高台に信玄が撃たれた場所(このキズで亡くなったとされる)の伝承地があります。


【歴史】

永正二年(1505年)に田峯菅沼氏の二代の定忠の三男の貞則が築きました。野田菅沼氏は初代貞則から定村・定盈と続き、当初、今川氏(氏親ー義元)に従いますが、永禄三年(1560年)に桶狭間にて今川義元が敗死すると定盈は松平氏に従います。今川氏真は野田城を攻め、定盈は西郷氏の元に逃れます。その後野田城を回復しますが、元亀二年(1571年)の武田信玄の三河侵攻で再度西郷氏へ逃れます。天正元年(1573年)の信玄の再度の侵攻には少数の城兵で籠城しましたが、結局開城します。(この戦いの後、信玄は病死します) 


  
  
主郭の土塁と空堀
  
縄張り図(現地案内板より)
  
  

近くの城・関連の城: 野田館大野田城 田峯城

          

主郭土塁        三の丸土塁
信玄が撃たれた場所の伝承がある場所と案内板