西三河の城003

                                                                               

深溝城(ふこうず) 0302
深溝城城址碑
A 額田郡幸田町深溝 B本光寺・郷土資料館  C平城
蒲郡より国道23号線で来ると、三ツ根駅前の信号を右折し、右手が深溝松平氏の菩提寺本光寺ですが、信号を右折し、本光寺の前で左折し北へ廻るように(半円を描くように)23号線に下りて行く道があります。この道の23号線より200mほど手前、工場の脇に城址碑があります。 城址碑のあるところは少し盛り上がっており土塁の痕跡のようです。

F遺構等:石碑・説明板  G鎌倉期〜戦国期〜江戸期/大庭氏〜(深溝)松平氏氏〜板倉氏  H満足度:凸     14世紀の始め大庭氏によって築かれました。大永年間に松平氏が大庭氏を討ち、松平忠定(三代信光の孫)が深溝松平氏初代となります。四代家定は天正十八年(1590年)の家康の移封に従い関東に移ります。慶長五年(1600年)、五代忠利が深溝藩1万石となり、慶長十七年(1612年)に吉田城に移ります。その後は板倉氏(重昌)が入り、次いで重昌の次男重直が8千石で陣屋を構えました。

 本光寺

J訪城:2002/09
六栗城 (夏目屋敷) 0290
吉信の墓
A 額田郡幸田町六栗 B明善寺  C平城
幸田町の国道23号線の上六栗の信号で右折し県道320号線へ入ります。900m先の六栗の信号を越え次の路地を左折します。100m先の右手に明善寺があります。このお寺の向かいに夏目氏の墓と説明板があります。城跡はここから西北に250m程場所となる字山屋敷となります。

F遺構等:井戸?  G戦国期/夏目氏  H満足度:凸
永禄六年(1563年)の三河一向一揆では六栗城主夏目吉信は野場城に立て籠もり家康に抗しました。松平伊忠に攻められ捕らえられますが家康は吉信をゆるしました。元亀三年(1572年)の三方原の戦いで吉信は家康の身代わりとなり家康と称して敵中に討死しました。家康は吉信を六栗明善寺に葬らせました。 <現地案内板より>

J訪城:2004/07
高力城 0303
高力城城址碑
A 額田郡幸田町高力 B−−−−− C平城
岡崎市内から国道248号線で進み坂崎石ノ塔の信号を右折します。600m進み坂崎船附の信号を直進し県道483号を進みます。1.6Km先の相見川の熊谷橋の手前右角に城跡碑があります。

F遺構等:碑  G室町期/高力氏  H満足度:凸
高力氏は足利尊氏より三河八名郡の地頭に任じられたことから始まります。高力重長は今川氏に属し松平清康と争うが後に清康に属しました。重長、その子の安長、重忠は松平氏に属し戦死しました。安長の子の清長は三河三奉行となり、同じ三奉行の本多重次が鬼作左と呼ばれるに対し、高力与左衛門清長は仏高力と呼ばれました。天正十八年(1590年)に高力忠房は岩槻2万石となりますが、子の高長の時(寛文八年(1668年)に改易となっています。なお、三河三奉行は本多重次・天野康景 高力清長の三人です。

J訪城:2002/09