伊賀 福喜多将監城
+福喜多氏館+榎並氏館



ファイルNo3289

十二評定衆のひとりの城

                            堀切

@ ふくきたしょうかんじょう 
  別名  

A住所:伊賀市朝屋
    旧:上野市朝屋

B目標地点:西蓮寺
C形式:丘城  D比高:30m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・土塁
G時代/人物:戦国期/福喜多氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  寺から10分

J撮影・訪問時期:2017年07月

  

道案内 

名阪国道の上野インターで下り、約2.5km先、伊賀上野城の西側、西大手の信号で左折します 道なりに1.2km先で長田橋を渡ります。長田橋から約700m先の十字路で左折します。約250m、長田小学校で、さらに小学校から700m先右手が西蓮寺です。この南側丘陵が城跡です。
<あるいは、伊賀上野中心部から国道163号で西に向かい、新長田橋から400m先が長田の信号、さらに500m先の信号の先で斜め左に入ると長田小学校の道です。> 

福喜多氏居館跡は本城の東にありますが、ご子孫がお住まいですので道案内は書きません。榎並氏館(えなみ)は診療所、老人ホームの南側の畑地が比定されています。

訪城備忘録

西蓮寺の南側のため池から斜面にある水路状の通路を登り途中から左手の中腹に行き、空堀状の先から直登すると背後に土塁がある二段の郭とその間と背後に堀切があります。丘陵の反対側から入ることもできます。居館跡は田んぼの真ん中に一軒家があり、三方を土塁が巡り、堀跡が残ってます。榎並氏館はホームの駐車場への道の間に空堀の痕跡、郭跡に土塁の痕跡が残ります。丘陵の城はいまいち城なのか疑問を残しながらの訪城でした。

城跡遠望
歴史

築城時期は定かではありません。福喜多将監は十二評定衆のひとりとして、天正九年(1581年)の第二次天正伊賀の乱では比自山城に籠城し、朝屋丸を守備しました。百田藤兵衛とともに大将として一揆衆を指揮、形勢不利と判断して比自山城を放棄し柏原城に退き、最後の抵抗をこの城で行いました。戦い後の消息は定かではないようです。ただ、ご子孫がおられるということは帰農したんでしょうね。<ご子孫一族の方からご連絡をいただきました。「福喜多将監は第二次天正伊賀の乱で敗戦が確定した後、長曽我部氏を頼って四国に落ち延びたようです。本能寺の変後、伊賀にもどったようです。そして津藩に藤堂家が入り伊賀に城代をおき、そちらに帰属しました。」>

土塁と郭       居館跡
居館の土塁と手前は堀跡
  
中腹の堀状        堀切
郭と土塁        堀切状
榎並氏館
     郭        土塁と空堀の痕跡

近くの城・関連の城: