和泉 淡輪城



ファイルNo2899


              土塁              

@ たんのわじょう 
  別名 淡輪邸 

A住所:泉南郡岬町淡輪
B目標地点:西林寺
C形式:平城  D比高:ーm 
E現況:宅地・畑地

F遺構等:郭・土塁・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期?/淡輪氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  南海本線淡輪駅から徒歩7分

J撮影・訪問時期:2014年07月・2024年01月

  

道案内 

第二阪和道路(国道26号線)の淡輪インタを下り、右折し府道752号線<旧国道26号線・紀州街道>に入ります。約1km先の淡輪中の信号を左折し府道259号線に入ります。約1.2km先の淡輪駅入口の信号を直進し、約250m先左側が城跡です。 

訪城備忘録

2014年に訪城した際に城址碑が見当たらずでしたんで、2024年に再訪しました。城跡に建っているアパート(寮?)が廃墟状態になってましたが、その建物のがある道沿いに説明板が立っていて、説明板の裏手、アパートに沿って低い土塁が延びています。アパートの反対側の奥、民家との境にわりと規模のある土塁が残り、城址碑が立っているとともに右手に祠がありました。10年前に比べこの土塁の草木が少なくなって城址碑が見やすくなってました。周囲は住宅が密集して、道も狭いんですが、この城館跡だけはL字の土塁が見事に残り、郭内も畑?としてわりと広い空間が残ってます。 

この城は真鍋水軍関連の城です。ここは2013年に出た和田竜さんの小説「村上海賊の娘」関連ちゅうことで来てみたんです。真鍋七五三兵衛と主人公の景の戦いの描写が面白くて、真鍋水軍関連の城が見たくなったんす。この小説、なんで映画化されなかったんやろ・・・。^^;

説明板
歴史

淡輪氏は、伝承では源義経の家臣の佐藤忠信の末裔と言われるようです。または、橘氏の系統とも言われるようですが、いずれにしても真偽は不明のようです。小治郎重治が鎌倉期初期(1200年前半)に地頭職としてこの地に入って淡輪氏を称したようです。元弘三年(1333年)、淡輪正円は足利尊氏に従ったようです。室町期は和泉半国守護の細川氏に従ったようです。戦国期に入り、天正初期には織田信長に従い、水軍を率いて天正四年(1576年)の木津川の戦いで毛利氏の水軍と交戦しました。その後の雑賀攻めにも参加しました。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死した後は豊臣秀吉に従ったようですが、淡輪良重(徹斎)は豊臣秀次の家臣であったため、文禄四年(1595年)の秀次事件で秀次が切腹に連座して淡輪氏は改易となりました。

     土塁     土塁の上の城址碑
  
土塁
土塁と城址碑
2014年
土塁
土塁
土塁
真鍋城 2898

@ まなべじょう A住所:泉大津市神明町6−15 B目標地点:南瞑寺
C形式:平城  D比高:ーm E現況:寺・宅地
F遺構等:碑 G時代/人物:期/氏 H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間: 泉大津駅から徒歩10分 J撮影・訪問時期:2014年07月

南海電車泉大津駅から北西約400mにある南溟寺が城跡とされます。境内に城址碑が立ってます。

南北朝期に南朝方の真鍋主馬太夫貞綱の頃に築城されたようです。元々、真鍋氏は淡輪庄の土豪であったようです。戦国期に入り、主馬兵衛貞友は織田信長に従い、水軍を率いて、天正四年(1576年)の木津川の戦いで毛利氏の水軍と交戦し。貞友は討死しました。五郎左衛門貞成は豊臣秀吉に従い、天正十三年(1585年)に大坂城に移ったため、城は廃城になったようです。

南溟寺山門       城址碑

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