大和 深野城



ファイルNo3179


                            東側堀切

@ ふかのじょう 
  別名  

A住所:宇陀市室生深野
    旧:宇陀郡室生村

B目標地点:
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・説明板
G時代/人物:戦国期/山本氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  林道登り口から10分

J撮影・訪問時期:2016年12月

  

道案内 

三重県名張市安部田で国道165号線から深野集落を目指すか、奈良県宇陀市の県道242号線から深野集落に入ります。深野集落の西側、長楽寺の西側の坂道を北側へ登ります。200m先で道は右カーブで100m先で左折します。80m先で右折し山に向かいます。約500m先に東西に林道が交差してます。この向かいに説明板があります説明板の左手からも登れますが、熊笹が多いので、説明板の北側に新しい急坂の林道があります。ここを登り、すぐに左手に登って行くと城跡です。

訪城備忘録

城跡は小さな詰め城です。主郭の東西に堀切があり、南北に帯郭がある程度です。近年整備され主郭には説明板もありますが、今は藪藪です。また、整備の際に北側が改変されているようです。西側尾根がわりと幅の広い緩斜面になってます。これは天正九年(1591年)に織田信長の伊賀攻めの際、筒井順慶方福住勢が陣城として使用し、兵の駐屯場所として使われた削平地とも考えられるとの事です。城の麓には居館跡があり、今もご子孫がお住まいのようです。

主郭
歴史

応永年間(1394〜1428年)に伊勢国司北畠晴具の臣、山本外記が築城したとされますが、天文年間(1532〜55年)とも考えられるようです。落城は元亀年間(1570〜73年)、織田信長の大和進攻の際とされますが、天正四年(1576年)の北畠氏滅亡時か天正九年(1581年)の天正伊賀の乱の時期と思われるとの事です。なお、山本氏は外記の弟形部が地侍となり、七代目彦三郎が貞亨年間(1684〜88年)が藤堂藩に仕え、代々相伝されたようです。 <現地説明板より>

西側堀切             東側堀切
城跡遠望                登り口そばの説明板
  
東側堀切               西側堀切
陣場駐屯地と思われる箇所から城域を見る

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