大和 楢原城(前城・中城)



ファイルNo2283

畝状竪堀と三重堀切が明瞭に残る

               三重堀切のひとつ(主郭下)    

@ ならばらじょう 
  別名 

A住所:御所市楢原
B目標地点:駒形大重神社・九品寺
C形式:山城  D比高:150m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・畝状竪堀・土塁
G時代/人物:室町期/楢原氏
H満足度: 凸凸△
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  神社前から20分

J撮影・訪問時期:2009年09月

  

道案内 ←登り口 ←城跡 ←平城の位置

大和高田市の国道24号線と国道166号線の交わる東室の信号から国道24号線を南下します。5km先、御所駅南の信号で右折し県道213号に入ります。櫛羅東の信号で直進し県道30号線になります。櫛羅の信号で左折し、県道30号線新道に入ります。1.2km先(九品寺の手前)、右手の電柱に墓地の看板がある路地に右折します。350m先に駒形大重神社の鳥居です。車ではこの辺に停めて、左手の方へ歩いて行きます。左手が墓地、さらに進むと右手が貯水池です。さらに山へ進みます。鳥居から600mほどで林道は左手、右手にパックリと開いた細道があります。この細道を山側へ進みます。細道は水が絶えず流れていて道なのか谷なのか判別しにくい感じです。5分も登ると谷が開けます。この右手斜面を登ると寺跡と言われる前城の前部に至ります。谷を進むと一番奥の斜め右手上が前城の三重堀切です。前城の奥と南に分かれた尾根が中城、左の奥の山上が奥城になります。
 
訪城備忘録

9月の下旬の訪城でしたが、開けた谷は夏草が生い茂り、尾根上の郭も藪、蜘蛛の巣、倒木で歩きにくく進むのに難儀します。この城は、沙恩寺跡と言う伝承のある平坦部を前部分に持つ前城と谷を隔てた尾根にある中城と前城の三重堀切のさらに奥の山上にある奥城で構成された城です。規模的には大和有数の大きな山城であり、畝状竪堀、堀切などが明瞭に残る城跡です。登城道を登って来て、谷が開けたところで右上に登ります。ここは古代寺院の沙恩寺(左音寺)と推定される部分との事です。何段かの削平地が連なり、少しづつ登ります。しかし、郭内は木が密集し、夏草は生い茂り、蜘蛛の巣は多く、倒木を多いという状態で歩くだけで疲れます。数段上ると浅い堀切があって最初のピークの郭をあります。ここにはL字の土塁も確認できますが、広さは無く、見張り台のような感じです。このピークの背後にも堀切があり、そこからまた登ります。北側斜面は歩いてきた郭が藪状態であったのに、この斜面は草木も少ない状態で、この城の見所のひとつの畝状竪堀がよく見えます。この上、尾根上が中城の主要部になりますが、郭内はやはり藪状態です。中城の主郭も小さな郭で櫓台ちゅう感じです。この主郭の背後に明瞭な三重堀切が見られます。さらに、主郭の南側斜面にも長さは無いですが畝状竪堀が見られます。郭内は藪で進むのに時間が掛かり大変しんどいですが、畝状竪堀・三重堀切は迫力があり、見に来た甲斐があると言うものです。しかし、体力的にはきつかったため、奥城は断念して退散しました。帰りも目印らしいものはなく、なにげなく歩いていると北東側に下りて行ったりして、途中で南側に廻り込んだなど、気を抜くと迷いそうなところですので、訪城される時には目印・方位に注意ください。

城跡遠景
歴史

楢原氏は鎌倉期には国人として台頭してきたようです。南北朝期には南朝方として活動し、越智氏に近かったようです。平時は楢原平城に居住し、楢原城は詰め城であったようですが、築城時期は定かではないようです。応仁の乱(応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年))には筒井氏に属し、文明七年(1475年)に越智氏方の吐田氏に攻められ落城、一時没落したようですが、明応六年(1497年)に吐田氏を破り楢腹城を奪還したとされます。その後も筒井氏(順昭・順慶)方として働きますが、筒井定次が天正十三年(1585年)に伊賀上野に転封になった際には従わずに帰農したと伝わります。

        畝状竪堀          谷地(右手が前城前部・左手奥上が奥城)
前部の郭内                   最初の堀切
最初のピークの郭の土塁                    背後の堀切   
  畝状竪堀                   主郭下の郭と土塁
三重堀切真ん中の堀切              三重堀切三番目の堀切
道案内
訪城は道に迷いやすいんで地図を添付します (地理院地図を加工)

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