大和 赤埴城



ファイルNo2233

                   南域虎口土塁(郭内より)   

@ あかばねじょう 
  別名 赤埴上城 

A住所:宇陀市榛原区赤埴
    旧:宇陀郡榛原町

B目標地点:仏隆寺・赤城山登山口
C形式:山城  D比高:60m(道標から) 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・土塁
G時代/人物:南北朝期/赤埴氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  道標から10分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。16km先榛原区中心部のY字を国道は斜め左を進みます。高架で国道165号線を横切った先のT字を左折します。4.5km先高井地区で斜め左(旧伊勢本街道)へ入ります。250m先の高井バス停付近で左折し、次のY字を右、次のY字を右、最後のY字を左へ入り、仏隆寺へ向かいます。3km先で仏隆寺下に至ります。左手の山上が寺、右手が駐車場です。ここで右折しさらに登ります。すぐに大きく左カーブで、それを過ぎるとY字で左は林道です。このY字を右手に進みます。上俵集落内のT字で左手に進み、200mほどで高城山登山口へ右折します。さらに500mほど進んだところに赤埴上城の道標があります。ここから登ります。
 
訪城備忘録

登城口から小道はジグザグで急斜面を登りますが、途中、道が消えたりしています。見上げると城跡の堀端のU字窪みが見えています。城跡は二つの尾根の先端に分かれています。つづら道を登ると南域の郭の虎口状の箇所に出ます。右手にL字の堀と土塁があり、主郭前で馬出しを形成しています。主郭は単郭方形の館城形式で周囲を土塁と堀が巡ります。虎口は平虎口で土橋が架かり、よく残っています。郭内は草木が伸びています。郭内の北側には大石の石列があるようですが、見ていません。南域の馬出しから小道をU字に左手方向に歩いて行くと北域の郭です。このU字の谷間は池になっています。これは当時は水堀なのか? 北域は空堀が尾根を完全に遮断し、郭側は高い土塁が横たわっています。尾根先端に舌状に郭が残っていました。南域の郭のさらに山側には細い堀と低い土塁で仕切られた大きな平坦地があるようですが草木が多くて入れませんでした。いずれにしても、山側尾根は幅の広い緩やかな斜面で、まるで兵站基地のようです。植樹された杉が相当に奥深くまで整然と立ち並んでいて異様な雰囲気がありました。今は山深いところにぽつんと残る城跡という感じですが、近くは伊勢本街道であり、ある時期は重要拠点であったようです。

登城口
歴史

南北朝期に赤埴安頼が築城し北畠氏に従い南朝方として活動したとされます。赤埴氏は宇陀七人衆の一家に数えられ、宇陀三人衆のひつり、沢氏に属していたものです。赤埴信安は天正四年(1576年)の北畠氏滅亡以降は筒井氏に従い、天正十二年(1584年)に筒井順慶が死去し、翌年 筒井定次が伊賀に転封後、赤埴安忠近は宇陀松山城に入った福島孝治(福島正則の弟)に従いましたがその後帰農したようです。

城域直下斜面より見上げる         南域の堀   
南域の虎口         南域の遠景
北域の堀(上から)     北域の土塁
北域の土塁          北域の堀
  
北域からの眺望         南域(林道)からの眺望
上俵集落内の茅葺民家    城跡周辺の民家     高井の江戸期古民家

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