大和 豊田城



ファイルNo2104

長大な横堀が主要部を囲む

              長大な空堀    

@ とよだじょう 
  別名:豊田山城 

A住所:天理市豊田町
B目標地点:豊井町の信号から北へ250m登り口入口
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・竪堀・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/豊田氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2009年05月・2017年07月

  

道案内 

西名阪道(国道25号線)の天理東インタを下り、県道51号線を南下します。1.5km先、左手に大きな天理教の母屋詰所のひとつがあります。ここの50mほど手前の登城道です。細い道を入ります。途中、Y字を右手へ山すその細い道を進むと城跡標識と案内板があります。さらに左手細道を進み、池のようなものが左手にある箇所から右手へ登り口があります。
 
訪城備忘録

昔は古めかしい標識と説明板でしたが、2012年に標識、説明板が新しくされたようです。夏場は草木が相当に伸び、ところどころが藪状態ですが、郭の周囲を巡る空堀は草木が少ないので見学に支障はありませんでした。この城は空堀が多用された城です。主郭、副郭を堀が取り囲み、その空堀が連結しているという感じです。さらに、その外側、斜面下にも空堀が続いていますが、ここは藪で見られませんでした。谷筋から登って来る城道を監視している南西の尾根の郭(出郭)から北の主郭方面に向かう城道は空堀が平行・交差しており、交差の要の地点は複雑です。しかし、郭内は藪状態で全体を見渡せないのが残念でしたが、それでも満足行く遺構の残る城跡です。

城跡遠望
歴史

築城時期は定かではありませんが、豊田氏の本拠として築城されました。豊田頼英が城主の頃が全盛期だったようで、豊田氏は応仁の乱までは越智方で、明応七年(1498年)に越智氏が没落時には筒井氏に攻められ落城するも、その後も豊田氏は筒井氏に対抗しますが、永正二年(1505年)の大和国人一揆以降は筒井氏に従ったようです。永禄十一年(1568年)に松永久秀に攻められ落城し、以後、豊田城は松永氏によって現在の形に改修されたと考えられます。城の廃城は松永氏の滅亡した天正五年(1577年)頃でしょうか?

主郭東側下長大な空堀
主郭北側下堀
現地説明板より
東の郭の虎口       空堀と土塁       南の郭への空堀
西の郭の外側堀        空堀と土塁          南の郭の堀
   
分岐点の標識    山道の入り口
登城道右手尾根に見える堀
城域手前の土塁状と虎口形状
右上出郭       奥が出郭
竪堀として落ちる空堀(東郭と副郭の間の堀の南側)
左手東郭と水場への道        右手段郭     
副郭南下
副郭南下堀と土塁
正面副郭の馬出し土塁
副郭・主郭東下の空堀
     主郭         副郭の段差(切岸)
副郭・主郭東下の空堀
副郭・主郭東下の空堀
主郭北側下堀        その下斜面の堀切
主郭西下空堀
主郭西下空堀から北側へ落ちる長大な竪堀
空堀

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