石見 津和野城



ファイルNo2940

戦国と近世の遺構が残る城跡

                               三の丸から人質郭・三十間台の石垣

@ つわのじょう 
  別名 三本松城、一本松城 

A住所:島根県鹿足郡津和野町後田
B目標地点:
C形式:山城  D比高:220m
  <リフト降り場から比高50m) 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/吉見氏
       江戸期/坂崎氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  リフト降り場から15分

J撮影・訪問時期:2015年01月

  

道案内 ←リフト乗り場

山口県庁付近から国道9号線で約50km、(山口県と島根県の県境の野坂峠のトンネルを越えて約4km先で)斜め左の県道226号線へ入ります。道なりに約2km下るとTj字交差点で左折し県道13号線に入ります。800m先、左手の津和野高校のところで右折し太鼓谷稲成神社へ向かいます。400mほど登ったところの右側にリフト用の駐車場があり、右の左手上にリフト乗り場があります。リフトはスキー場のリフトの感じです。 尾根までリフトで登り、左手方向に進みます。徒歩の場合は、リフト乗り場の先に入口がありました。電車は山口線の津和野駅で降りて、県道13号を南方向に約2km行ったところが津和野高校地点です。

訪城備忘録

山上の総石垣の城域だけでなく、戦国の姿も残す広大な城域の城です。 この日はリフトで尾根まで行き、出丸(織部丸)−本城ー南出丸ー中荒城を通って下りましたので、北出丸や中腹の時打櫓周辺を見ていません。 南出丸の三重堀切、二重堀切だけでも一見の価値があり、北出丸、中腹の郭群も相当の遺構があると思います。さて、城域ですが、リフト降り場から5分ほどで最初の尾根のピークがあり、近世津和野城の出丸である織部丸に至ります。 ここも四方を石垣に固めた曲輪で、尾根には戦国時代の堀切が残っています。ここを過ぎてさらに5分ほど行くと尾根の鞍部に出ます。ここに城址碑と説明板がありますが、近世津和野城の大手道はここに至ります。また、井戸である万代池もこの北側下にあります。ここから石段を登って行くと総石垣の本城に至ります。 石垣部分は大和高取城、豊後岡城、美濃岩村城などには及びませんが、山頂の一帯が石垣で固められています。 東門周辺は豪雨等の災害で石垣が崩れるようで立ち入り禁止です。面白いのは天守台が最高峰ではなく、三十間台から下がった箇所にあります。三層の天守が建って建物込みでは一番高くなるのでしょうが、丸亀城や彦根城のように小さくても大きく見せるという感じではないようです。三の丸から見る人質郭の高石垣は圧巻です。三の丸の南門を抜けて尾根を歩いて行くと南出丸です。今の道の両サイドに出丸は存在しますが、郭内は整備されていないため不明瞭です。ここを過ぎたY字を左手に行くと東屋を越えると三重堀切が見られます。けっこうしっかりした堀切です。戻ってY字を右手に進みますと二重堀切です。ここは土橋と連結した竪堀が明瞭に見られます。このまま進むと中荒城に至ります。 また、麓の居館跡には物見櫓、近くには馬場先櫓が現存しています。 その他、武家屋敷などが残っているようですが、ここいら辺は私は今回は未訪問です。またの機会でと思います。

リフト乗り場駐車場の説明板
歴史

弘安五年(1282年)に石見に入った吉見頼行が永仁三年(1295年)より築城を開始し、(当初は現在の中荒城が最初の津和野城(三本松城)と言われる) 正中元年(1324年)の頼直の代まで続いたとされます。その後も順次拡大していったようで、天文二十三年(1554年)の三本松城の戦いと言われる陶氏との戦いの際に竪堀などが構築され、100日籠城に耐えたと言われます。吉見氏は頼行以降14代続きましたが、毛利氏に従っていた吉見正頼でしたが、毛利氏が関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後に防長2国に減封されて萩に移ったため、それに従いました。替って、関ヶ原の戦いの功績で坂崎出羽守直盛(宇喜多詮家)が入封し、元々の三本松城の城域を相当に縮小し、山頂部分を総石垣の城に改修したとされます。元和三年[1617年)に直盛が死去し、坂崎家が改易となり、亀井政矩が因幡鹿野より4万3千石で入封し、以後、亀井氏が11代、明治維新まで続きました。

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太鼓丸から三十間台石垣                      中世南出丸の三重堀切の一つ

現地案内板より
  
国道からの遠望                   県道からの遠望
城址碑                          現地案内板より
本城三十間台からの眺望

近くの城・関連の城:中荒城・丸山城