越後 大葉沢城



ファイルNo2684

脅威の畝状竪堀が残る城跡

                       畝状竪堀     

@ おおばさわじょう 
  別名  

A住所:村上市大場沢
    旧:岩船郡朝日村

B目標地点:普済寺・雷神社
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・畝状竪堀・土塁・説明板
G時代/人物:室町期?/鮎川氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  公民館駐車場から20分
J撮影・訪問時期:2011年10月

  

道案内 

日本海東北自動車道の村上瀬波温泉インタを下り、上助渕丸山の信号を右折、すぐの瀬波温泉IC入口の信号を左折し国道7号線に入ります。7.5km先、古渡路の信号を右折し県道205号線に入ります。700m先の小川の信号で斜め右に入り県道349号線に入ります。(500m先は日本海東北自動車道の朝日三面インタで、ここで下りてもいいです)小川の信号から1.7km先右手の公民館の駐車場に車を止め、案内板に従い小道を進み、神社鳥居から山に登ります。 

訪城備忘録

尾根上の郭、尾根を隔てる堀切という部分は典型的な初期戦国の山城(詰城)という感じですが、尾根の南下斜面に残る畝状竪堀群は圧巻です。確かに、上杉系の城には畝状竪堀は見られますが、50条もの畝状竪堀が300m近く続いているというのは驚きです。こんなハリネズミのような畝状竪堀は美濃篠脇城、飛騨広瀬城以来かな? 越後の城はそんなにたくさんは見学していないですが、ひとつの城跡としてはおもしろい存在です。

居館跡とされる普済寺
歴史

築城時期は不明ですが、本庄氏の一族で鮎川氏が室町期の始めに居城としたと考えられます。天文八年(1539年)には本庄房長が抗争で弱体した際、鮎川清長は、同族の小川長資と組み、本庄城を攻めました。その後、房長の子の繁長と和睦しましたが、永禄十一年(1568年)に繁長が武田信玄に懐柔され上杉謙信に背いた際、清長の子の盛長は謙信方として本庄繁長と戦ったとされます。この離反は謙信にゆるされ、本庄氏は本庄城にあり、鮎川氏に従っていたようですが、天正十八年(1590年)に上杉景勝に背く動きが繁長にあり、繁長は追放されました。鮎川氏はその後もあり、慶長三年(1598年)、景勝が会津転封となった際、鮎川氏も会津に移り、城は廃城になったとされます。

畝状竪堀                  大堀切
現地案内板より                 城跡遠望
現地案内板より(クリックすると大きくなります)
  
尾根の小郭と小堀切               二重堀切
畝状竪堀(ごぼう峯)
畝状竪堀の堀
土塁         東の郭          堀

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