相模 衣笠城



ファイルNo2146

                            

@ きぬがさじょう 
  別名 

A住所:横須賀市衣笠
B目標地点:大善寺
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林・寺

F遺構等:郭・堀切・碑・説明板
G時代/人物:平安期/三浦氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  大善寺から10分

J撮影・訪問時期:2009年05月
       (2022年04月)

  

道案内 

横浜横須賀道路の衣笠インタを下り、衣笠城址前の信号を左折し、すぐの太田和街道入口の信号を左折します。50m先の路地を斜め右に入り、450m先の右手高台が大善寺です。この裏山が城跡です。
 
訪城備忘録

城跡の行き方は案内通りが楽ですが、この日の訪城は三浦縦貫道路の入口付近から山越えで城跡に行きました。周囲はただの山で遺構らしきものも無く、城跡も主郭と思われるところの背後が堀切っぽいですが定かではなく、郭も公園になっていて(公園といっても草むらみたいな感じですが)遺構らしきものは判別できません。やたらと城址碑が立ってますが・・・。大善寺も往時は城の一部であったようです。

護衛艦いずも・戦艦三笠

護衛艦ひゅうが  護衛艦かが
城址碑
歴史

平安後期の前九年の役で功があった平為通が源頼義から三浦の地を賜り三浦氏を名乗ったものです。康平五年(1062年)にこの城を築城しました。源頼朝の挙兵には四代の三浦義明は頼朝に従いますが、城はいったんは落城し、義明は討死しました。義明の嫡男が義宗は若くに没し、(その息子は(和田)義盛) 三浦氏は義明の次男の義澄が家督を継ぎました。鎌倉幕府が成立後に再び三浦氏の本拠地となりました。義澄の後は子の義村で、義村、その子の泰村、光村らは宝治元年(1247年)の宝治の戦いで執権北条氏(時頼)に破れ、一族のほとんどが滅亡し、衣笠城も廃城になったようです。三浦氏は義明の十男の(佐原)義連の子の盛時が三浦氏を再興し新井城を本拠としたようです。

主郭
大善寺
護衛艦いずも  戦艦三笠
佐原城 3807
 
北久里浜駅のそば国道134号線の湘南橋の信号から南西側で約900mの所の県道27号線、佐原の信号で横浜横須賀道路の佐原インタ方向に進みます。約250m先を斜め左に入ります。(中央分離帯があるため佐原インタから直接この道路には進入できません。) 約100m先、横浜横須賀道路の高架沿いで左折し、高架沿いを約100mほどすすみ右折し高架をくぐり右折しまた高架沿いを約100m進んだところで左折します。約20m先で斜め左に坂道が延びていますのでここを登ります。約250m先で車両は行き止まりですが、この左手に「佐原十郎義連城跡」という城址碑が建ち、簡単な説明板があります。遺構はありません。

築城時期は定かではないですが、平安末期に佐原義連が築いたとされます。義連は三浦義明の子とされますので佐原城は衣笠城の支城であったようです。鎌倉幕府成立後の宝治元年(1247年)の宝治の戦いでは三浦一族は執権北条氏(時頼)に破れ、一族のほとんどが滅亡しました。佐原氏は北条氏に付き、三浦氏は義明の十男の(佐原)義連の子の盛連が三浦氏を再興し新井城を本拠としたとされます。
佐原氏が宝治の戦いで北条氏に付いて残ったのは、盛連の妻の矢部禅尼は最初は北条氏三代執権泰時に嫁いで時氏を生みましたが、その後になぜか離縁されています。(時氏の子の経時が四代執権、時頼が五代執権になってます。) 矢部禅尼はその後盛連に再嫁し、光盛(蘆名氏)、盛時、時連らの子を生みました。この矢部禅尼の意思が子供らに働いて三浦一族でありながら北条氏方になったようです。

怒田城 3808
空堀の段差
@ ぬたじょう 
  別名 沼田城 

A住所:横須賀市吉井1丁目
B目標地点:
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:公園

F遺構等:郭・堀・説明板
G時代/人物:平安期/三浦氏
H満足度:
凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分


J撮影・訪問時期:2022年04月
    ←登り口
JR 横須賀線久里浜駅そば、国道134号線のJR久里浜駅前の信号から約900m先の舟倉の信号を右折します。約200m先で京急久里浜線の踏切を渡ります。約100m先を右折し、約300m先の線路際で左折します。約50m先を右折し約50m先の右斜めの坂道を登ったところが城跡です。 全体には貝塚公園で整備されてますが、城跡としては空堀の片方の段差と土橋の痕跡のみが残り、一段高いところが郭です。現在は宅地開発や線路敷設で丘陵は削られたとされます。往時は入江となっていて水軍の拠点でもあったようです。

 
説明板

築城時期、築城者は不明ですが平安末期には存在したようで、三浦氏の本拠の衣笠城の支城であったとされます。

公園内       主郭
現地説明板より

近くの城・関連の城: