神奈川の城01  

                                                                               

河村館 2056 
説明板

郭?
A足柄上郡山北町岸
B
東名高速道の大井松田インタを下り、国道246号線を御殿場・沼津方面に進みます。10km先の山北駅そばの宮地の信号を左折し県道74号線に入ります。1.4km先(岸の信号の250m手前)を右折し、すぐのY字を右手に登って行くと、次のY字手前左手に説明板があります。説明板がポツンという感じで立っています。

C丘城
F遺構等:郭?・説明板
G平安期/河村氏 
H満足度:凸

平安末期に秀郷流藤原氏の一族で波多野(河村)秀高が築城したと伝わります。その後、この周辺は河村城の平時の居館として機能したものです。しかし、河村氏の居館跡は特定されているわけではなく、伝承で「秀満屋敷」、「土佐屋敷」という地名が残っているのはこれらの関連であろうと推測され、発掘調査では方形の館跡が発見されたようですが、これは大森氏時代、あるいは北条氏の城代としての居館跡であろうとの見解のようです。

J訪城:2009/03
  
波多野城 2057
城址碑

城址周辺
A秦野市寺山
B東中学校

国道246号線秦野市の名古木の信号を北に曲がり、県道70号線に入ります。2.4km先の信号を斜め左へ(源実朝の首塚のあるふるさと伝承館<中丸遺跡>方面)入ります。350m先の東小学校前の信号を越え、30m先を右折し、小学校沿いを進みます。200m先の右手が東保育園と東中学校の門があり、この反対側が大きな谷状になっています。ここに小道があり反対側の台地への道があります。ここに下り、台地の先端側に歩いていくと城址碑のところに上がる道があります。 発掘調査をしても遺構などは出なかったらしいですが、伝承でここが城址とあるようです。

C丘城
F遺構等:碑
G−−期/−−氏 
H満足度:凸
秀郷流藤原氏の佐伯経範の子孫の波多野義通が祖であるとの事です。源頼朝が挙兵した治承四年(1180年)の際、波多野義常は参戦ぜず、松田館で自害し、義常の叔父の義景が当主となります。建保元年(1213年)の和田義盛の乱では義景の子の盛通が和田氏に付いて滅んだため、義常の弟の忠綱が当主となったとされます。忠綱は源実朝の首を埋葬し菩提を弔ったとされます。義景以降の当主の館が波多野城とされるようです。これ以降は一説ですが、波多野清秀(秀長)は応仁の乱の頃に丹波を与えられ、清秀(秀長)の子の元清(稙通)は丹波八上城を築城しました。元清(稙通)・晴通の後秀治が八上城主となりますが、明智光秀に攻められ天正七年(1579年)に降伏、弟の秀尚とともに織田信長に処刑され波多野氏は滅亡しました。

J訪城:2009/03
   

梶原景時館(一宮館) 1975

城址碑

説明板
A高座郡寒川町一ノ宮8丁目
B天満社・西町集会所

東名高速道厚木インタを下り、国道129号線を平塚市内に進みます。9km先の田村十字路の信号で左折し県道47号線に入ります。800m先で相模川を越え、1.4km先の寒川跨道橋の信号を右折し県道46号線に入ります。750m先の一ノ宮小入口の信号を左折し県道44号線に入ったすぐの右手天満宮に城址碑があります。100m先の右手の西町集会所前に大きな説明板があります。館跡の主要部は西町集会所の道を挟んだ反対側の住宅地一帯で、今での方形の道が巡ります。天満宮は櫓台であったとされます。

C平城
F遺構等:碑 
G鎌倉期/梶原氏 
H満足度:凸
治承四年(1190年)に源頼朝が挙兵した際、緒戦の石橋山の戦いには破れます。この時、梶原景時は平家方でしたが、翌年から頼朝の家臣となり、鎌倉幕府成立に尽力した功によりこの地を得て館を築いたとされます。頼朝在位中は重臣として活躍しましたが、頼朝死後は他の家臣と対立し、正治元年(1199年)に鎌倉を追放されました。翌年、再起の上京を図りましたが、駿河にて北条方に攻められ討死しました。

J訪城:2008/09


真田城  1977 
発掘現場
天徳寺

A平塚市真田
B天徳寺
国道246号線の桜坂の信号で南に入り、県道612号線に入ります。2.2km先の延命地蔵前の信号で左折し県道613号線に入ります。1.2km先で県道は左カーブですがそのまま直進します。500m先を左折し、すぐにまた左折した先が天徳寺です。丘陵の先端という感じの地形ですが、道路工事で周囲がどんどん改変されています。寺の周囲で発掘調査が続けられているようです。

C平城
F遺構等:なし 
G平安期/真田氏 
H満足度:凸
三浦氏一族の岡崎義実の子の義忠が築城し、真田与一義忠と名乗ったとされます。治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵に参戦しますが、石橋山合戦で戦死しました。義忠の子の盛実が城主となりますが、建保元年(1213年)の和田義盛の乱で討死し、いったん廃城となりました。明応四年(1495年)に北条早雲によって小田原城を奪われた大森藤頼が古城を修築して入城しましたが、3年後の明応七年(1498年)に再び北条氏により攻められ落城したとされますが、それとは別に戦国期に上田氏によって改修され、永正元年(1504年)の真田合戦の舞台となり真田城は落城したともされます。

J訪城:2008/09