下野 千本城



ファイルNo2601


                        主郭への城道土塁と横堀    

@ せんぼんじょう 
  別名 教ケ岡城 

A住所:芳賀郡茂木町町田
B目標地点:
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/千本氏(那須氏)
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  配水場から5分

J撮影・訪問時期:2011年01月

  

道案内 ←城跡 ←車の登り口

国道123号線から天矢場の信号で国道294号線に入ります。5km先が千本の信号、さらに800m先が県道338号線の分岐です。ここから2.6km先、(芳賀十字路というバス停の200mほど手前)に戻り右へ登る道があります。入口に小さな千本城の案内板があります。ここから500mほど道なりに進みますが、道は登り道からいったん下り坂になり、再度登ると集落入り口で、ここの右手に山への道があります。入口に小さな千本城の標識があります。乗用車一台程度の幅の道を300mほど進むと水道の配水場で、ここが城跡の入口です。城址碑・説明板のある道の先は畑でここを200mほど進むと二の郭があります。この辺まで車で入れます。国道の入口の1kmほど手前、国道の右側の民家の前に遊歩道の入口もあります。 
訪城備忘録

配水場から入るとすぐに城址碑と説明板があり、進むと、大きな二段の畑があります。この畑は屋敷跡ですが、その城跡(屋敷跡)の雰囲気が残ります。ここを抜けると二の郭の虎口の土塁が見事で、ワクワクしてきます。二の郭から主郭虎口へもクランク状に登り土橋を越え、虎口の土塁を抜けるという城道でなかなかいいです。主郭も二段の大きな郭で今は一部欠落していますが土塁が巡っています。主郭東下には腰郭があり、さらに下の竹薮も当時は郭であったように見えます。主郭背後の堀切は腰郭と繋がっており、堀底道の役目であったようです。いったん配水場まで戻り、展望台の標識に進みます。展望台は出郭(見張り台)であったようです。主要部と出郭の堀切から登ると見張り台手前にも削平地があり、削り残しの土塁がL字にありました。見張り台からの眺望はほんとに気持ちいいくらい遠くまで臨めました。この城、林道で一部は破壊されていますが、完存の上、関東の城に言えますが、豪族の城のわりに郭が大きく、城の姿が容易に思い浮かべられる城でした。なかなかです。

城址碑と説明板
歴史

那須資隆の十男の為隆が建久年間(1190〜99年)にここに城を築き千本氏を称したとされ、以後、千本氏の居城となりました。天文二十年(1551年)千本資俊は宇都宮氏の調略に乗り、芳賀高定とともに、千本城にて烏山城の那須高資を殺害しました。高資の後を継いだ資胤によって資俊はゆるされてその後も那須氏に従いましたが、天正十三年(1585年)、資俊、資政親子は資胤の家督を継いだ資晴によって謀殺され千本氏は絶えました。その後、茂木三郎の子の義政(のちに義隆)が千本氏を継承し千本城に入りました。天正十八年(1590年)の小田原城攻めには豊臣氏に従い、慶長五年(1600年)の関が原の戦いには徳川氏に従い、江戸期は3370石の旗本として続きました。

主郭への土橋              主郭背後の堀切
現地説明板より             出郭を国道から遠望
  
屋敷地
外側より        二の郭虎口       内側より  
主郭土塁と横堀                 主郭虎口  
主郭と土塁
神社と土塁               主郭下腰郭
主郭背後堀切               二の郭と土塁
   主郭切岸                 主郭土塁から二の郭
出郭と主要部の間の堀切          出郭下の郭と削り残り土塁
出郭
出郭からの眺望
国道からの分岐点             集落から城跡の入口

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