上野 阿岨城



ファイルNo2254

     空堀    

@ あぞじょう 
  別名 

A住所:利根郡昭和村橡久保
B目標地点:あぞ城址公園
C形式:丘城  D比高:200m 
E現況:山林・公園・田畑

F遺構等:堀・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/沼田氏(金子氏)
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分

J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

渋川市内から国道17号線で来ると 岩本町の信号で右折し県道65号線に入り、関越自動車道の昭和インタへ向かいます。2km先の森下の信号を左折し県道255号線に入ります。2.2km先の昭和村青少年広場の前で右折し、断崖を登る道を行きます。段丘を登りきると一面畑ですが、段丘端を北に行く農道をを進みます。500mほどで左手が城址公園です。

訪城備忘録

台地の先端に城跡はありました。一応城址公園になっていて、説明板もありますが、内容がなんか変。遺構は堀がしっかりと残っていて、櫓台のような土塁が残っていました。往時はもっと規模が大きい城だったようですが、今は一面の畑です。

城址碑
歴史

沼田城団のひとつとされます。天正元年(1573年)沼田顕泰(あきやす)<万鬼斎>は幕岩城から蔵内城(沼田城)に移り、この城を築城し、金子美濃守に与えました。(説明板にはこうありましたが、倉内城(沼田城)が築城されたのが天文元年(1532年)、上杉謙信に沼田城を攻められ降伏したのが永禄三年(1560年)、顕泰が息子の朝憲を謀殺したのが永禄十二年(1569年)であるため、天正元年に倉内城に移ったはなんか変・・・。なお、天正六年(1578年)に謙信は死去)
天正六年頃は北条氏の城となっていたと思われます。天正八年(1580年)に武田方の真田昌幸がこの地方を領有、天正十年(1582年)には北条氏邦が攻めたて落城し、金子美濃守は倉内城に逃れたとされます。金子美濃守は沼田顕泰の側室の「ゆのみ」の兄で、顕泰が嫡男を謀殺する際に暗躍し、ゆのみの子の平八郎景義が天正九年(1581年)に蜂起した際も真田昌幸の策に乗り、景義を沼田城で謀殺している人物。城については天正十八年(1590年)の小田原の役まで存在したのか不明。

    櫓台と説明板      関越道の陸橋から城址公園方向
  

近くの城・関連の城: