上野 明徳寺城



ファイルNo2241

思ったより空堀が見事に残る

      空堀     

@ みょうとくじじょう 
  別名 

A住所:利根郡みなかみ町後閑
    旧:利根郡月夜野町

B目標地点:みねの湯月夜野旅館
C形式:丘城  D比高:60m 
E現況:山林・畑・旅館

F遺構等:郭・堀・土塁・説明板
G時代/人物:南北朝期/沼田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  旅館駐車場から5分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の月夜野インタを下り、国道17号線を沼田方向に進みます。2km先井土上町の信号で左折し、県道61号線に入ります。3km先、JR後閑駅手前の信号で右折しJRの踏み切りを越えます。200m先の右カーブの途中で左手の道へ左折し、駅裏を通過します。玉泉寺・町営温泉センタ方面に進み、関越道のカードをくぐります。ガードをくぐり、すぐに右折し、高速道沿いに進みます。坂を登りきったところで右折し高速道を越えると温泉旅館があります。この左手裏手の駐車場に説明板があります。
 
訪城備忘録

郭内は果樹園、畑となっていて、西側は竹やぶになっていて見通しは悪いのですが、土塁は確認できます。説明板から虎口との間で左手(東側)の藪の窪みを下りていくと、竹やぶになっていて見通しは悪いですが、長く堀が明瞭に残っていました。堀の二箇所に開口部があり、虎口のようにも見えますがどうでしょうか?。その先は崖の状態であり、後世の造作なんかな? 虎口なら堀底道なんでしょうけどね

説明板
歴史

南北朝期に荘田城の沼田氏が会津の芦名氏に備えて築いた天神山砦を明徳年間(1390〜94年)に改修したと考えれてます。永禄三年(1560年)、謙信は沼田城を攻め、沼田顕泰は降伏。沼田城を退去し沼田氏はこの時で終焉したと考えます。上杉氏の支配下にありましたが、天正六年(1578年)の謙信の死去後。天正七年(1579年)には北条氏が支配しました。真田昌幸は岩櫃城を拠点に名胡桃城、小川城を手に入れたため、沼田城代藤田能登守は明徳寺城を修築し、矢部豊後守などが城代となりました。天正八年(1580年)に昌幸は明徳寺城を攻め落とし、ここに弥津志摩守、出浦上総介を守将として置き、さらに改修しました。天正十七年(1589年)に豊臣秀吉の裁定で明徳寺城は北条氏のものとなりましたが、沼田城代の猪俣憲直(邦憲)が名胡桃城を占拠したことが発端で小田原城攻めとなり、天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡、この頃、明徳寺城は廃城になったとされます。(現地案内板より)

土塁(郭内)         堀  
説明板の場所から城跡へ(虎口?)    土塁(郭内)      
郭内         堀
  
城跡遠景(白い建物は旅館)     城跡背後のビューポイント

近くの城・関連の城: