上野 高崎城



ファイルNo2237

       三の丸の土塁と水堀   

@ たかさきじょう 
  別名 

A住所:高崎市高松町
B目標地点:高崎市市役所
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公共施設・公園・市街地

F遺構等:郭・堀・土塁・石垣・櫓・門・説明板
G時代/人物:室町期/和田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の高崎インターを下り、県道27号線に入ります。5.7km先の信号で左折し、300m先の本町三丁目の信号でいったん国道17号線と合流します。600m先の連雀町の信号で右折します。(250m先左手に櫓と門が移築されています。)500m先の保険福祉事務所前の信号で左折し、300m先右手が高崎市役所です。

訪城記録

本丸付近は工場、市街化で遺構は無いようです。高崎市役所の南側、西側に三の丸の土塁と水堀が思いのほか良好に残っています。また、本丸乾櫓、三の丸東門が移築されています。

三の丸土塁と説明板
歴史

和田義信が築城し和田城とされたのが始まりとされます。和田氏は関東管領上杉氏に属していましたが、永禄五年(1561年)に和田業繁は上杉氏から離反し武田氏に属しました。天正十年(1582年)に武田氏が滅ぶと滝川一益に属し、本能寺の変で滝川氏が関東から去ると北条氏に属しました。天正十八年(1590年)の豊臣氏の小田原城攻めで城主の和田信業は小田原城の籠城参戦し、城は豊臣氏方の前田利家らに攻められ落城しました。慶長二年(1597年)に井伊直政が和田城の跡に築城を開始し箕輪城より移り、この地を高崎とし城も高崎城としました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い後に直政は近江に移封となり、以後、明治維新まで城主はめまぐるしく変わりました。寛永八年(1632年)には城主、安藤重長の時に徳川家光の弟の忠長がこの城に蟄居の身となり、寛永十年(1633年)に自害した城です。めまぐるしく変わった城主も享保二年(1717年)に松平(長沢大河内)輝貞が再入封してから松平氏が十代続き明治維新まで続きました。

乾櫓          移築復元        三の丸東門
土塁      本丸付近
  

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