越中 / 楡原



ファイルNo0977


                            館跡の田園

@ にれはらやかた 
  別名  −−−−−

A住所: 富山市楡原 
    旧:婦負郡細入村
B目標地点:八幡神社 
    
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:田畑

F遺構等:類似説明板
G時代/人物: 戦国期/畠山氏
H満足度:
凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2005年08月

  

道案内 

富山市中心部より国道41号線で高山方面に向かいます。旧大沢野町を越え、神通第二ダムを越え2.8Km先の旧細入村の楡原地区で右折します。(この手前50mの国道41号線沿い右側に畠山重忠の石碑があります。) 右折した道は最近作られた新しい道で、300m先の左側段丘上が八幡神社で右側段丘上が館跡です。高山本線ガードを越えてすぐ右折し100m先を左折し段丘を登ると「畠山重忠の墓」に至ります。
 
訪城コメント

神通川の左岸で国道よりさらに20mほど高台にあり、「畠山重忠の墓」の背後一帯が館跡です。耕地整理もされているのでしょう遺構らしきものはなさそうです。

畠山重忠の墓と背後は館跡
歴史

畠山重忠の墓説明板より:この高台は「舘」といわれ、戦国期の永禄十二年(1569年)に能登守護の畠山義則が楡原一帯を治める居館があった場所です。いざ戦乱となりますと背後の大乗悟城、南側の楡原山城にたて篭もりました。


【畠山重忠の墓】
源頼朝が重病にかかった時に易者が生きた犀の角を煎じて飲めばすぐになおるとと言上したため、頼朝は重忠に犀角を用意するよう命じました。重忠は犀が棲むという神通川まで来て死闘の末に老犀の角を確保したものの、易者はこれは死犀の角であるとしたため、重忠は頼朝に逆臣とされました。重忠は楡原で謹慎していたものを元久二年(1205年)に鎌倉方に討ち取られたという言い伝えがあります。 (史料では重忠は元久二年に武蔵国二股川(現:横浜市)で北条義時と戦い討死したとされます。)
この墓は畠山氏の祭祀のひとつとで重忠を弔ったものか、この地で戦死した一族の将を葬ったもので塚と考えられ、重忠伝説は不運の武将であった重忠を追善供養のために語り継がれたと考えられるとの事です。 <現地説明板より>


   館跡背後大乗悟城      館跡を北側から(正面繁みは八幡神社)

  
館跡より楡原山城方面       国道沿いの畠山重忠の碑

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