富山の城004/

                                                                               

鶴ケ城(羽根城)  0051
A富山市婦中町羽根  /旧:婦負郡婦中町  C平城

富山市中心部より国道359号線で砺波方面に向かいます。神通川の婦中大橋より約5Km先の国道沿い右手に説明板がありますが、遺構らしきものはまったくありません。

F遺構等:説明板
G戦国期/大間知氏  
H満足度;凸

長沢郷羽根村で下村との境に大沼がありそこに鶴が城があったとされます。神保氏の家臣の大間知民部頭源淨安は二塚城に居城し知行1万3千石を禄し、子の兵庫政近は鶴ケ城を築きましたが、天文七年(1538年)に富崎城と共に落城、永禄二年(1559年)に神保氏が再び富崎城に入った際、政近の子の兵庫安政が鶴ケ城を再築したものの、永禄九年(1566年)に上杉謙信の武将上杉弥五郎が富崎城を攻略した際に鶴ケ城も落城し、安政は羽根村に隠住し帰農したと伝えられます。 <現地案内板を転記 婦中町古里地域観光協会・古里郷土研究会>

J訪城:2003/08
新庄城  0749
A富山市新庄町  
B新庄小学校 C平城

富山城から国道41号線で東へ進みます。4Km先荒川東部の信号で左折し県道56号線に入ります。300m先で富山地方鉄道を陸橋で越え、下りたところの信号を右折して100m先をまた右折すると小学校です。城の痕跡は何もありません。

F遺構等:説明板  G戦国期/長尾氏(上杉氏)  H満足度;凸

太田新城・辰城とも呼ばれています。永正十七年(1520年)に越後の長尾為景は神保慶宗らを討つため越中に侵攻し慶宗らを敗走させ自刀に追い込みましたが、この時に新庄に陣したことが記録されています。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたものと考えられます。元亀三年(1572年)に上杉輝虎(謙信)の武将鯵坂長実が在城し、富山城が一向一揆に攻略されると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となりました。天正八年(1580年)織田信長方の神保長住が新庄城を攻めており、佐々成政が富山城を拠点にした越中平定には新庄城は佐々方の城となっています。天正十三年(1585年)には上杉方の土肥氏勢が一時この城を奪いましたが、その後には前田氏の城となり、元和元年(1615年)までには廃城となりました。史料には城の規模は東西140m・南北100m以上で本丸・二の丸からなります。本丸は現在の新庄小学校のグランド周辺とされています。 <現地案内板より 富山教育委員会>
2013年、体育館の改修工事で発掘調査され、堀、土塁が検出されたとの事です。

J訪城:2005/05
城ケ山城  0082
段郭??
A富山市八尾町諏訪町  旧:婦負郡八尾町 
B城ケ山公園 C丘城

富山市内よりは国道359号線を婦中・砺波方面に向かい婦中町長沢の長沢の信号で国道472号線に左折します。国道472号線で八尾町中心部に入り、八尾小学校・東町図書館付近より登ります。 城ケ山は公園となっており、明確な城跡遺構はありません。八尾(やつお)は越中おわら節が有名で九月一〜三日の風の盆で全国的に有名な場所です。

F遺構等:説明板  
G鎌倉期/諏訪氏  
H満足度;凸

諏訪左近という人物がここに城を構えたという記録があります。

J訪城:2002/08